建業(けんぎょう/中国語:Jiànyè)は、現在の南京市中心部にあたる地域の古称で、とくに三国時代の東呉が都城を置いた際の名称として知られます。長江下流域の戦略拠点であり、江南経済圏を背後にもつ政治・軍事・交易の中心として機能しました。のち東晋および南朝諸王朝の首都は「建康(けんこう)」と改称されますが、都市核と地政学的条件の多くは建業期に整えられました。「建業」という語そのものは「業を建てる」、すなわち国家的事業を起こすという建国の志を帯びた名であり、後世の南京の多面的な性格—王朝都市、軍事要地、商業港湾、文化の都—の出発点を象徴しています。本稿では、地理と成立背景、東呉都城としての建業、東晋・南朝への継承(建康)と都市文化、軍事・経済・宗教の諸側面、さらに後代への影響と考古学的知見を整理します。
地理と名称の変遷:秣陵から建業、そして建康へ
建業の所在地は、長江の南岸に広がる台地と河港から成る現在の南京中心部です。古くは秣陵(まつりょう)・丹陽郡の治所として知られ、六朝期以降は江南最大級の都城へと発展しました。東呉期に都城が建設されると「建業」と称され、東晋成立後には「建康」と改められます。名称の変更は単なる改名ではなく、王朝の理念や政治的連続性の調律を映すものでした。とはいえ、城郭の骨格、港湾の位置、郊外の丘陵と水系がつくる防御と物流の枠は、建業期から一貫して南京の都市史を規定しています。
この地域は、北の長江本流と南の秦淮河水系に挟まれ、内陸水運の結節点として卓越した条件を備えました。東西に伸びる長江航路、南北を貫く水網と丘陵の要害、背後の肥沃な江南農業地帯が、戦略的優位を形成します。のちの大運河体系が整備される前から、建業は自然のハブとして機能し、兵站と交易の両立が可能でした。
東呉の都城としての建業:遷都の理由と都市設計
三国期、孫権政権は当初、長江中流の武昌(現・湖北省)を根拠地としましたが、江東全域の統治と海運・商業の活用、北方政権との対峙に適した位置を求めて、229年の皇帝即位前後に建業へ遷都しました。遷都の動機には、①長江下流域の富と人口を直接掌握すること、②海上交通(東シナ海沿岸・台湾海峡方面)と河川交通の結節点を押さえること、③江北からの侵攻に対する防衛力を高めること、が挙げられます。
都城建設では、城郭・宮城・市(いち)・港湾が複合的に配置されました。長江に面する城壁は河港の出入りを統制し、内陸側では丘陵と水路を生かした防御線が張り巡らされました。宮城は城郭の中核に置かれ、政庁(丞相府・尚書台)や軍政機関が集約されます。市の区画は手工業・交易に対応した区分が設けられ、胡商(北方・西域系商人)や海商の居住と活動が可能な制度が整えられました。秦淮河沿いには倉庫群と造船・修船の施設が建ち並び、軍需と商業が共用する港湾都市としての性格が強まります。
建業はまた、江南の開発を前進させる統治拠点でした。屯田や移民政策、塩・鉄・木材・漆・絹など産品の管理、豪族層の統合が進み、江南社会が国家の直接的な課税・徴発システムに接続されます。これにより、東呉は北方の魏・蜀と均衡する財政・兵站の基盤を確保し、長江—海のネットワークを活用した独自の戦略を展開しました。
建業から建康へ:東晋・南朝の首都と都市文化の成熟
西晋の華北統一と短命な崩壊(八王の乱・永嘉の乱)を経て、多数の北方貴族・官僚・職人・兵士が長江以南に南渡しました。317年、司馬睿が建康(旧・建業)に即位して東晋を樹立し、その後の宋・斉・梁・陳の南朝諸王朝も同地を都としました。名称が建康に改まったのは、新王朝の正統性—「国家の安康」—を掲げる意図と、魏・蜀・呉三国体制からの断絶を示すためです。
この時期、建康は政治中心であると同時に、文化と宗教の都へと変貌します。北方からの亡命者と在地の江南豪族が融合し、貴族サロンの詩酒・清談が花開きました。東晋—南朝の名士文化(王謝の風流)に象徴されるように、書・画・音楽・文学が都市生活の象徴となり、王羲之・謝霊運・陶淵明らの世界が成立します。皇帝や貴族の後援を受けて仏教寺院が多数建立され、道教もまた宮廷・民間双方に浸透し、山水志向の自然美学と宗教実践が都市と郊外を結びつけました。
都市計画面でも、宮城・台城・宫苑・寺院・市場・邸宅区の配置が洗練され、秦淮河周辺には橋梁と堤が整備され、夜間の灯火と水上交通が都市景観を形作りました。軍事的には、長江対岸(江北)に前衛拠点を配し、渡河点を制御することで北朝との境界防衛を行いました。こうして建康は、北方の政治変動を受け止める避難港であり続け、江南の恒常的な首都機能を担ったのです。
軍事と防衛:長江の城、渡河点の制御、後背地の確保
建業/建康の軍事的強みは、第一に長江という天然の壕です。大河は大規模な渡河作戦を困難にし、敵の兵站線を脆弱にします。城郭は河岸線に沿って伸び、砦と烽火台が水陸の出入りを監視しました。第二に、渡河点の選定と要塞化です。浦口・瓜洲・采石など、航路と河況に応じた渡河適地が厳重に管理され、橋頭堡の構築や河防艦の配備、機動部隊の待機が常態化しました。第三に、後背地(江南)の開発と補給線の確保です。水田・桑畑・塩場・林産資源の管理は軍需の安定に直結し、運河・支流・堤防の維持は兵糧の輸送能力を左右しました。
東呉・東晋・南朝の各政権は、北朝との攻防で幾度も長江防衛線の価値を実証しました。逆に、内紛や宮廷クーデターが頻発すると、城下の秩序は脆くも崩れ、軍権と財政の分断が外敵の好機となりました。建業/建康の歴史は、都市の堅牢さだけでなく、政権内部の統合の度合いが防衛力を左右することも教えてくれます。
経済と交易:江南の富、港市機能、手工業と市場
建業は、江南の米作・絹織・塩・漆・木材・陶器・鉄器など多様な産品の集散地でした。秦淮河沿いの倉廩と河港は、米穀の積み替えと塩の流通を支え、手工業者の工房は官需と民需の双方に応えました。行政は市易(市場統制)や度量衡の標準化、商税・関津の徴収を通じて財政基盤を整え、胡商や海商の活動を統制しつつ活用しました。海運では、揚子江口から浙江沿岸を経て南海へ至る航路が活発化し、香料・宝石・薬材・異域の工芸品が都に集まりました。
江南の開発は、北からの移民の技術移転と豪族の資本、官の屯田・水利事業が相乗した成果でした。灌漑と堤防、ため池の整備は、都市の食糧安全保障と洪水対策に資し、都市の人口増を支えました。こうした経済的厚みは、文化のパトロネージ(寺院造営・学芸保護)を可能にし、建康風流と呼ばれる都の華やぎを生みました。
宗教・学芸・都市文化:仏教の都、清談と文人のネットワーク
建業/建康は仏教の重要拠点でもありました。訳経僧の活動、戒壇の設置、大寺院の建立は、王権の庇護と結びついて進み、南朝仏教は在家貴族のサロン文化と連動しました。道教もまた、新天師道や上清・霊宝といった教団が台頭し、養生・斎戒・符籙の実践が貴族社会に広まりました。宗教空間は、都市の景観—塔・堂・橋・林—を規定し、年中行事は市民生活のリズムを形作りました。
文芸では、山水詩・志怪・志人の散文、琴や香の文化、書と画の鑑賞が盛んになり、江南の自然美と都市洗練が結びついた独自の感性が醸成されました。王羲之の「蘭亭」的世界は会稽(紹興)との連関が強いものの、その文化圏の政治・流通の中心は建康にあり、人物・作品・逸話は都を介して流通しました。女性の教養や宗教参加も高まり、寺院の寄進や文学サークルへの関与が史料に残ります。
後代への連続:江寧・南京へ、都城の記憶と近世・近代
隋唐期には、建康は「江寧」「金陵」などの名称で州城・行在として機能し、宋代には江南東路の中心都市として繁栄しました。元末明初、朱元璋は応天府(南京)を本拠として明を創建し、初期にはここを京師として大規模な城郭・宮城(南京城・明故宮)を築きます。こうして、三国—六朝以来の都市基盤は、明代の首都計画へと継承されました。清代以降も南京は江南の経済・文化都市として重みを持ち、近代には太平天国の天京、民国の首都など、政治的舞台に再三登場します。
都市の地形—長江と丘陵、秦淮河の水網—は、古代から近代まで一貫して軍事・経済・文化の選択を規定し続けました。城壁の線形、門の位置、港の配置、郊外の陵墓群は、異なる時代の層を重ねながら、連続する「都城の記憶」を今日に伝えています。
考古学と史料:城址・瓦当・碑刻、文献の交差
建業・建康の実像は、文献と遺構の双方から復元されています。城壁や台城の痕跡、瓦当・青磁・鉄器の出土、河港施設の遺構、寺院址の柱礎などが、都市の規模と機能を物語ります。碑刻・墓誌・仏像銘は、人物像と宗教ネットワークの具体像を与え、税・関・市易に関する文書は、経済活動の制度的枠組みを示します。文献では『三国志』『晋書』『宋書』などの正史に加え、志怪・筆記・地理志が都市の日常や逸話を伝え、地名考証は名称変遷の手がかりを提供します。
考古学は近年、城壁の多重構造、河道の変遷、港湾の再編、寺院群の配置変化を明らかにし、都市計画と環境変化の相互作用を描き出しています。水辺の都市としての建業/建康は、洪水・氾濫・堆積と常に格闘し、その都度、堤防・水門・運河の改修が都市の持続可能性を左右しました。これらの知見は、古代都市のレジリエンス研究としても意義があります。
まとめ:建国の志を名に刻む江南の都
建業は、名称に「業を建てる」という創業の志を露わにした都でした。東呉の戦略的遷都により、長江と秦淮河の地理的優位が国家事業の舞台へ転じ、江南の経済力が政治・軍事・文化の核として立ち上がりました。東晋・南朝の建康はその器を拡張し、宗教と学芸が織り成す都市文化を成熟させました。後代の南京は、この遺産を幾度も再解釈し、王朝都市・商業都市・近代首都として姿を変えつつ、地形と水系の与えた制約—そして可能性—に応答し続けています。建業という用語は、三国志の一節に留まらず、東アジア都市史の長い弧の起点を指し示す言葉として、今日も読み直す価値があるのです。

