黄巣の乱 – 世界史用語集

黄巣の乱(こうそうのらん、875〜884年頃)は、唐末の財政破綻と地方軍政(節度使)体制の矛盾、塩専売と税負担の歪み、気候不順と飢饉、交通・商流の混乱が臨界に達したときに、塩商出身の黄巣(こうそう)と王仙芝(おうせんし)を先頭に華北・江淮・江南・嶺南から関中に至る広域を席巻した大反乱です。蜂起は最初こそ流民・密商の武装蜂起という色合いでしたが、数年のうちに「斉(せい)」を号して長安に入城する一大政権実験に転じ、唐王朝の権威を致命的に傷つけました。乱は最終的に諸節度使—とくに朱全忠(しゅぜんちゅう、朱温)と沙陀突厥系の李克用(りこくよう)—の協力の下で鎮圧されますが、唐は以後も回復せず、五代十国の分裂へと雪崩れ込みます。本稿では、背景と前史、蜂起・拡大・入長安の過程、政権運営と瓦解、鎮圧と余波、社会・経済・文化へのインパクトを、史料の読みどころとともに整理します。

スポンサーリンク

背景:塩・税・軍政の歪みと環境ストレス

9世紀後半の唐は、安史の乱(755〜763)以降に確立した節度使体制のもと、辺鎮が軍事・財政・人事を事実上独立運用する構造に陥っていました。中央は宦官が神策軍を握り、皇帝と宰相の人事に介入し、外廷(文臣)と内廷(宦官)の権力抗争が常態化します。均田制・租庸調の崩壊後、両税法は比較的柔軟な税制でしたが、実務は地方増徴・苛斂誅求を招き、兵糧・運輸・治水にしわ寄せが出ました。財源の柱である塩専売(塩引請)も、許可証(鹽引)の不正・密売横行・汚職の温床となり、合法的な生業が閉塞した層が流民化します。

環境面では、874年前後の旱魃と蝗害が華北・黄河流域を襲い、収穫減と価格高騰が直撃しました。交通・治水の要である黄河・運河の維持は手薄となり、漕運の停滞は京畿の食糧逼迫を招きます。こうした条件のもと、流民・商人・手工業者・没落小農・傭兵が結びつき、山東・河南・江淮の広域にゆるやかな武装ネットワークが生まれました。黄巣—祖父の代からの塩商—と王仙芝—元は小商・武芸者—は、そのネットワークの中心に位置します。

前史と蜂起:王仙芝の台頭から黄巣の単独主導へ

875年、王仙芝は山東・河南の境で挙兵し、賦役免除や略奪の抑制、富者からの均分を掲げて勢力を急拡大しました。黄巣は当初、王仙芝と結び、各地の県城・倉庫を襲撃しながら補給を確保します。唐廷は討伐将として宋威・裴偓系の官人、さらに黄巣鎮圧で名を挙げる諸節度使を投入しますが、地の利をもつ反乱軍は転戦機動で包囲を破りました。877年、王仙芝が戦死すると、黄巣が主導権を握り、より大規模で遠距離の作戦に打って出ます。

黄巣は江淮を南下して長江以南へ入り、富庶な江南で糧秣・銭財を獲得しながら、さらに嶺南(広州)へ至りました。878〜879年の広州入城は、海外交易都市への反乱軍の前例のない侵入で、多数の域外商人(アラブ・ペルシャ・南アジア系を含む)が殺害されたと伝えられます。これは、交易・財富の集中がもたらした都市の脆弱性と、異域商人に対する敵意・略奪の連鎖を示し、海上シルクロードの中継港に深刻な打撃を与えました。もっとも、数字の信憑性には議論があり、当時の記録の誇張も指摘されています。

北上・関中侵入と入長安:斉の建国と「都の経験」

嶺南で補給を整えた黄巣は、879年に北上を開始し、江西・湖南・湖北・河南を経て関中へ向かいます。唐廷は王重荣・高駢など著名節度使の兵を合わせて迎撃しましたが、指揮の不統一と互いの牽制、宦官の干渉が足を引っ張り、黄巣軍は遂に潼関を抜いて長安へ殺到します。880年末、長安は陥落し、皇帝僖宗は蜀(成都)へ逃れました。黄巣は年号を「金統」と改め、国号を「斉」として即位し、唐の正統に代わる王朝を自称します。

入長安後、黄巣政権は短期間ながら都城経営と官人登用に着手しました。博士・郎官の任命、租税の再編、軍糧の徴集、貨幣・物資の市場統制など、既存の唐の官司制度を下敷きに急場の整備を試みます。黄巣は反乱指導者としてのカリスマはあっても、広域官僚制の操作には不慣れで、軍紀の緩み・略奪の横行が都の支持を失わせました。補給線は東西に伸び、関中の収奪は農村・市民に重圧をかけます。宦官と結ぶ神策軍残党や在地勢力の撹乱も激化し、黄巣は長安の維持に苦しみました。

都の防衛は、潼関・華州・同州の扼点を抑えることに依存しましたが、唐側は李克用をはじめ沙陀突厥系の騎兵を動員し、機動戦で黄巣の側面を脅かします。李克用の機動と朱全忠の粘着戦術は、斉政権の補給と士気を徐々に蝕み、軍中離反が相次ぎました。朱全忠はもとは黄巣側の将でしたが、唐に降り「討黄巣」の顔となって地歩を固めます。この寝返りは黄巣陣営の求心力に深刻な穴を開けました。

瓦解:長安放棄から山東敗走、そして最期

882年、黄巣は長安の保持を断念して東走し、同州・陝州・汴州(開封)方面へ転戦します。各地の節度使は、自らの防区と利害を優先して連携が取れず、局地的勝敗の連鎖が続きましたが、総体としては唐側の巻き返しが進みました。黄巣軍は華北平原で機動するも、糧秣欠乏・疫病・士気低下に苦しみ、盟友や部将の離反が止まりません。884年、山東の泰山付近で包囲の危機に陥った黄巣は自殺(あるいは討死)し、乱は組織的には終息に向かいます。残党は各地で群盗・流寇化し、数年にわたり治安を乱しました。

黄巣の最期には諸説があり、自殺説・戦死説・部下の裏切りによる殺害説が伝わります。いずれにせよ、核心部の壊滅は反乱の政治的可能性を閉じ、代わって諸節度使—なかでも朱全忠—が「平乱の功」をもって中央権力を左右する新局面を開きました。朱全忠はやがて宦官勢力を粛清し、梁を建てて唐を簒奪します。一方の李克用は晋王として華北・河東に牙城を築き、その子孫が後唐へとつながるなど、五代十国の主役がこの乱の鎮圧過程から現れました。

社会・経済・文化への影響:流民化、都市の脆弱性、海陸交易の断絶

黄巣の乱は、社会の基層に長期的な傷を残しました。第一に、流民化の波です。旱魃・蝗害と徴発・略奪が重なり、農村から都市、北から南へ、大河沿いから山地へと大量の人口移動が生じました。これは治水・耕作・道路維持の労働力を奪い、地域経済の復元力を弱めます。地方権力は保甲・団練的な自衛組織を作って治安を自助し、のちの地方武装化の基層を作りました。

第二に、都市の脆弱性が露呈しました。長安・洛陽・汴州のような内陸都城は、漕運と周辺農村からの供給に依存しており、補給線が切れると持久が困難です。黄巣の入長安は、都城が象徴資本であると同時に補給の墓穴にもなり得ることを示しました。広州事件に象徴されるように、海上交易都市は外洋ネットワークに依存し、戦乱時には域外商人が脆弱な立場に置かれました。外国人商人の被害はイスラーム世界の史料にも刻まれ、唐の海上交易の後退はインド洋—南シナ海ネットワークに一時的歪みを生んだ可能性があります。

第三に、財政・税制の再編圧力です。塩専売の破綻は、官の独占が腐敗・密売の巣窟になりうることを露わにしました。唐は乱後も財源の立て直しに苦しみ、朱全忠の時代には専売・関税・戸調の再構成が図られますが、中央の再集権は達成されません。地域間の経済断層—江淮の富と華北の荒廃—は拡大し、のちの呉・閩・南唐など江南政権の台頭の前提となりました。

文化面では、乱は文人・僧侶・職人の移動を促し、地方に文化の重心が拡散しました。蜀・江南の詩壇や工芸が隆盛を見せる背景には、長安の荒廃と避難移住があります。他方で寺院財の徴発・破壊も起こり、宗教施設は軍需の前に無力でした。史料上の言説では、黄巣が科挙に度々落第して鬱屈したという逸話が流布しましたが、実際には塩商出身であり科挙エリートの嫉視というより、商権・課税・流通をめぐる摩擦が動機の中核だったとみる方が現実的です。

史料と解釈:『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』と地域史料の突き合わせ

黄巣の乱の叙述は、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』が基本線を提供しますが、いずれも朝廷側の視角が強く、反乱側の内部事情は断片的です。地方志や碑刻、イスラーム世界の地理書・航海記(広州事件関連)を突き合わせることで、交易都市・港湾の実態、人口・物流の変化を補完できます。討伐将としての朱全忠・李克用の事績は、各家の家伝・五代史の枠に入り、勝者の観点から再物語化される傾向があるため、同時代資料の異同を検討する注意が求められます。

学界の重要論点は、(1)黄巣軍の社会構成(塩商・流民・傭兵・没落士人の比率)、(2)広州事件の規模と性格(宗教・人種的殺戮か、戦利目的の都市襲撃か)、(3)「斉」政権の制度運営の実態(官制・財政・市場統制の具体)、(4)鎮圧の主役の評価(朱全忠=秩序回復者か、簒奪者の前史か)、(5)乱の長期影響(江南台頭・海上交易のシフト・五代十国への助走)などです。新出土の文書・貨幣・考古資料はこの議論を更新し続けています。

総括:王朝の末期症状を可視化した「移動する都」の反乱

黄巣の乱は、王朝末期の症状—財政の空洞化、軍政の分権化、専売と汚職、環境ショック、人口移動—が同時多発で臨界に達したとき、交易と軍事のネットワークを逆流させて中央権威を打ち抜いた事件でした。黄巣の「斉」は、都を占領し王を称することで正統を奪おうとしましたが、補給と行政の持続性を欠いたため、長安は『獲得した瞬間から失い始める』場所となりました。鎮圧の主役から新たな簒奪者が生まれたことは、暴力の終息が直ちに秩序の回復を意味しないことを教えます。乱後の唐は、形式的に続いても内実は崩れ、やがて五代十国の群雄割拠に解体しました。黄巣の乱を辿ることは、国家の統治インフラ—税・塩・水・道—が崩れるとき、政治秩序がどのように崩落するかを具体的に理解する道でもあります。都市と農村、海と陸、商と兵が絡み合う大動脈の切断こそが、王朝を倒す〈見えない刃〉だったのです。