「西域都護(せいいき とご)」とは、中国の漢王朝が河西回廊の西、タリム盆地一帯のオアシス諸国を軍政・外交の面から統轄するために置いた役職・機関のことです。前漢末の前60年頃に初設され、駐屯と外交、道路と補給の管理、屯田の監督、朝貢・封号の執行などを担いました。これは中央ユーラシアに伸びる交易と安全保障の接点を、中国側が恒常的な制度で押さえようとした試みで、のちの唐代の安西・北庭都護府に連なる長期的な「辺政」モデルの原型でもあります。西域都護は戦役時の統率者であると同時に、日常の調停者・徴税者・裁判官・郵驛の管理者でもあり、オアシス社会の秩序形成に深く関与しました。以下では、成立と制度の枠組み、実際の活動と対外関係、東漢以降の変遷と唐代への継承、史料から見える実像と歴史的意義を、できるだけ分かりやすく整理して解説します。
成立と制度の枠組み—初設の背景、任地と下部組織、財政・軍事の基盤
西域都護の設置は、前漢が匈奴勢力を河西以西から排除し、シルクロードの要衝を自らの補給線に組み込もうとした過程で生まれました。張騫の出使(前2世紀)以後、武帝は河西四郡(武威・酒泉・張掖・敦煌)を整備し、玉門関・陽関を通じて敦煌から西へ諸国と通交します。前1世紀、車師(チャルシャン、トルファン盆地)一帯の制圧と匈奴勢力の後退を背景に、前60年頃に「西域都護」が置かれ、漢の軍政代表がオアシス諸国の上位に立つ体制が整えられました。
都護の駐在拠点は時期により移動しますが、伝統的に烏壘城(うらいじょう)(焉耆またはその近傍、カラシャール方面)や龜茲(くじ/クチャ)が重要な司令基地でした。これは天山南路(北道)と南路の分岐に近く、各オアシスへの連絡と糧秣の集積に適していたためです。都護の下には、騎兵・歩兵からなる常備兵と、現地の援兵を組み合わせた部隊が配され、要地に戍所(ガリソン)を置きました。前漢後期には戊己校尉(ぼきこうい)という別系統の軍職が車師方面に置かれ、都護と相互に補完しあう布陣が敷かれます。
制度面での任務は多岐にわたります。第一に軍政統轄で、漢の将兵の指揮、要塞の修築、道路・橋・井渠の維持、軍糧の確保を監督しました。第二に朝貢・封号・裁判で、オアシス諸国の王や長に印綬・爵号を授与し、相互の紛争を調停・裁断します。第三に屯田の監督で、兵士や移住民に耕作を行わせ、駐屯の持続可能性を高めました。第四に驛伝(駅伝)・郵行の管理で、敦煌から楼蘭・高昌・龜茲・于闐(ホータン)へ至る駅路の馬・人夫・文書輸送を整え、中央と辺境を結ぶ通信を確保しました。
財政的基盤は、河西四郡からの補給に加え、オアシスからの貢納・関市(市場)での課徴、隊商への課金、屯田の収穫などの複合でした。都護の権限は広範でしたが、現地王権の自立性を認める「間接統治」の性格が強く、全域を直轄地化するのではなく、冊封秩序と駐屯を組み合わせたネットワーク管理が基本でした。
活動の実際—外交・軍事・交通の三層、班超の事績とネットワーク運用
西域都護の活動は、(1)外交、(2)軍事、(3)交通・経済の三層が絡み合っていました。外交面では、オアシス諸国の王位継承や国境紛争に介入し、和親・婚姻・人質交換を通じて漢への帰属意識を維持します。軍事面では、匈奴・烏孫・康居など草原勢力の動向に応じ、要所に出兵して交通路を確保しました。交通・経済面では、駅伝網の維持、隊商の保護、市場(関市)での貨幣・物資の流通管理を行い、官用・民間双方の往来を支えました。
東漢期に入ると、都護は一時廃止と再設を繰り返しますが、その名をもっとも高めたのが班超(はんちょう)です。班超は1世紀後半に敦煌を起点に西域へ進出し、少人数で機敏な謀略と同盟工作を重ねて龜茲・焉耆・于闐などを帰属させ、90年代には「西域都護」に任ぜられました。彼は現地支配層の対立を見極め、迅速な懐柔と示威を組み合わせ、駐屯兵力を過度に増やさずに広域の秩序を維持しました。また、97年には部下の甘英(かんえい)を「大秦(ローマ)」に向けて派遣し、ペルシア湾岸まで到達させたことでも知られます(最終的なローマ到達は叶わず)。
班超の事績は、都護の実務が単なる軍事にとどまらず、情報収集・人脈形成・贈答と儀礼・言語・通訳の運用に依存していたことを示します。駅伝網はここで生命線であり、敦煌の文書群(いわゆる敦煌文書)には、駅所への馬の配当、塩・穀・布・兵器の移送指示、使節団の人数・日程・宿泊の記録などが具体的に残っています。これらは都護の「ネットワーク運用能力」が、辺境統治の核心であったことを物語ります。
軍事作戦でも、都護は「点と線」の制御を重視しました。すなわち、全域占領ではなく、楼蘭(水資源の要地)、高昌(トルファン盆地の出口)、龜茲(北路の中心)、于闐(南路の中心)などの戦略拠点を確保し、そこから線(路)を延ばして通信・補給を維持する手法です。これにより、少兵でも広域の影響力を及ぼすことが可能でした。他方、現地王国の離反や外圧が強まると、線は容易に断たれ、都護の威令が及ばなくなる危うさも常に抱えていました。
変遷と継承—廃置と再設、後漢から魏晋・隋唐へ、安西・北庭都護府との関係
西域都護は恒久的な機関ではなく、漢の内政や外圧の状況に応じて廃置・再設を繰り返しました。前漢末〜新代(王莽期)には動乱で機能が低下し、東漢初にも一時的に影響力を失います。73年の竇固・耿恭らの車師方面の戦役を契機に再進出が進み、班超時代に最盛期を迎えますが、2世紀後半の後漢末の混乱で再び後退しました。
魏晋南北朝期には、漢の「西域都護」に直接連なるポストは希薄になりますが、敦煌・高昌など河西—西域の連絡は断絶せず、地方政権や現地王国が独自に対外関係を築きました。5〜6世紀、突厥(テュルク)の台頭で草原—オアシスの秩序が再編され、隋が中国を再統一すると、唐がこれを継いで再び西域に恒常的な軍政機関を置きます。これが安西都護府と北庭都護府です。安西都護府は当初龜茲に置かれ(のち亀茲・クチャ一帯)、北庭都護府は庭州(ウルムチ近傍)に置かれ、天山南北の軍政を二元的に管理しました。
唐の「都護」は、名称こそ同じですが、管轄領域、行政権限、軍団編成、官等体系などがより制度化され、府の下に羈縻州や防・鎮を配する広範な枠組みを取りました。これは漢代西域都護の発想—冊封と駐屯を組み合わせ、交通路を確保する—を大規模に拡張したものと理解できます。8世紀に吐蕃の圧力と安史の乱が重なると、唐の都護府は機能不全に陥りますが、以後も「都護」という辺政官名は、遼・金・元・明・清の各時代に名前を換えつつ継承され、辺境統治の語彙として定着しました。
清代にはジュンガル征服後の新疆編入(18世紀)で、総統・参贊大臣・参領などの軍政官が配置され、最終的に新疆省(1884)として省制に組み込まれます。この長い時間軸の上に立つと、漢代の西域都護は「オアシス・ステップ複合空間を国家制度に接続する最初期の試み」として位置づけられます。
史料にみる実像と歴史的意義—正史記事・敦煌/トルファン文書、評価の両義性
西域都護についての基礎情報は、『漢書・西域伝』『後漢書・西域伝』『魏書・高昌伝』『旧唐書・西域伝』『新唐書・西域伝』などの正史記事に加え、敦煌・トルファン文書、楼蘭・ニヤの木簡などから得られます。とくに敦煌から出土した公文書は、駅伝の馬匹・人夫の動員台帳、塩・穀・兵器の移送、使節の出迎え・餞別、税や課役の割当といった「行政の現場」を詳細に伝え、都護の指令がどのように末端に届いていたかを具体的に示します。トルファンの出土文書には、漢文のほか、ソグド語・吐火羅語・古ウイグル語の契約・訴状があり、漢の制度とオアシスの法慣行が交錯する様相を読み取ることができます。
評価は両義的です。一方では、都護の設置によって玉門関の外側に恒常的な治安と通信の枠が生まれ、隊商交易と文化交流が安定し、中国と中央ユーラシアの接続が強化されました。仏典・絹織・金銀器・ガラス・葡萄酒・音楽・舞踊などの相互流通は、都護が維持したネットワーク基盤に依存していた面が少なくありません。他方で、都護体制は冊封と軍事圧力を伴い、オアシス諸国の自律性を制約し、王位継承や内紛への介入を常態化させました。漢の内政が動揺すると都護は撤退し、空白は外圧や地域紛争の激化を招くこともあり、安定と干渉の両面が表裏一体でした。
総じて、西域都護は、ユーラシア内陸の「点(オアシス)と線(駅路)」を国家制度に埋め込む初期の実験でした。これは単発の遠征や一時的な駐屯ではなく、文書・駅伝・儀礼・贈答・婚姻といった「ソフトな装置」と、城塞・屯田・武装という「ハードな装置」を束ねて継続的に運用する発想です。唐の都護府、清の新疆省へと続く長い辺政の系譜のなかで、漢代の西域都護は制度史上の出発点として重要であり、シルクロードの歴史を「通商路の管理史」として捉え直すうえでも不可欠の概念だと言えます。

