社会革命党左派(左派エスエル、Left SRs)は、1917年のロシア革命期に社会革命党(SR)から分岐した急進派で、ボリシェヴィキ政権と短期間の連立を組みつつ、土地の「社会化」と地方自治、農民の直接的利害の即時実現を強く掲げた政治勢力です。彼らは十月以後に人民委員会議(ソヴィエト政府)の一角を担い、農業・司法など重要ポストで政策を主導しましたが、対独講和(ブレスト=リトフスク条約)に断固反対し、1918年7月6日の独大使ミルバッハ暗殺とモスクワ蜂起を起こして政権と決裂しました。蜂起は数日で鎮圧され、党は非合法化・弾圧の対象となり、指導者は投獄・亡命・転向の途をたどります。つまり左派エスエルは、十月革命後に「農民の革命」を国家政策へ直結させようとしたが、戦争・講和・食糧動員をめぐる現実の前で、ボリシェヴィキとの同盟と対立の狭間に砕けた勢力だと理解していただければ十分です。
起源と思想——SR主流からの分岐と「土地の社会化」
左派エスエルは、1917年の春から夏にかけて社会革命党内部に生まれた路線対立から形成されました。共通の根はナロードニキ(人民主義)にあり、農民の共同体(オーブシチナ)を基盤に地主制を打破し、土地を私有財産ではなく利用権中心で運用する「土地の社会化」を主張した点で、右派・中間派のSRと同様です。ただし左派は、帝政崩壊後の革命情勢で即時の土地没収と無償配分、中央官僚を介さない地方ソヴィエト・農民委員会の権限強化をより強硬に求めました。都市労働者を中核とするボリシェヴィキ革命路線に対しても、農民の数量的優位と食糧供給の現実を盾に、「農民の意思を政策中枢へ」という主張を押し出しました。
思想のもう一つの柱は、戦争と講和に対する立場です。左派エスエルは反帝国主義の観点から第一次世界大戦の継続に反対しましたが、同時にドイツ帝国との不平等講和にも反対しました。彼らの論理では、革命ロシアは侵略にも屈従にも加担せず、第三の道として、諸国民の革命連帯・ゲリラ的自衛を通じて「革命的防衛」を行うべきだとされました。この原理主義は、のちにブレスト講和をめぐる致命的な衝突を準備することになります。
組織面では、左派は都市の若い知識人、下級官吏、地方の学校教師、農民活動家を多く吸収しました。党内にはテロルの伝統を肯定する声も残りましたが、1917年の合法政治空間の拡大に伴い、ソヴィエトと選挙、地方自治を通じた大衆動員に主軸を置く傾向が強まります。これは後に、政府内に人材を送り込み、短期間ながら政策実行の現場を握る素地となりました。
十月革命後の連立と政策——農業・司法・治安での「左派エスエル色」
1917年10月の武装蜂起でボリシェヴィキが政権を掌握すると、左派エスエルは「土地の社会化令」など農民本位の施策の即時化を条件に連立参加へ傾きます。11月以降、人民委員会議(ソヴィエト政府)には左派エスエルの重鎮が入閣し、農業人民委員アンドレイ・コレガエフ、司法人民委員イツハク(イサーク)・シュタインベルク、郵便電信人民委員プローシ・プローシアン(プロシアン)らが知られます。彼らの下で、地主地所の没収と配分、村落自治の権限承認、革命裁判の設計、政治犯 amnesty の指針などが議論・実施されました。
とくに農政では、「社会化」の語が示すとおり、土地そのものの国有(国家による直接所有)ではなく、地域共同体・農民委員会が利用権を管理し再配分するという理念が前面化しました。左派エスエルは、国家官僚が上から農業を指揮する方式に慎重で、村の合意と慣行を尊重して「粗暴な徴発よりも価格と輸送の整備を」という発想を持っていました。他方、都市の飢餓と交通の混乱が深刻化する中、食糧独裁(武装徴発)を唱えるボリシェヴィキの緊急政策とは緊張が生まれ、政府内部でも対立は絶えませんでした。
司法行政においても、シュタインベルクは、革命期の例外状況のなかであっても「合法性(ザコーンノスチ)」の枠組みを保持しようと努め、無制限な非常手段の常態化に警鐘を鳴らしました。治安機関チェーカー(非常委員会)が急速に権限を拡張することに、左派エスエルは制度論的懸念を表明し、議会的・公開的統制の強化を主張しました。しかし、内戦の兆しと破壊工作への恐怖が強まるにつれ、現実政治は彼らの構想から逸れていきます。
ブレスト=リトフスクと7月蜂起——同盟から決裂へ
1918年3月、ドイツ帝国との講和交渉は、領土の喪失と賠償を受け入れる厳しい条件で妥結しました(ブレスト=リトフスク条約)。ボリシェヴィキ指導部の内部でも賛否は割れましたが、レーニンは「息継ぎ」のための屈辱的講和を押し切ります。左派エスエルにとって、これは革命の自立性を売り渡す屈服であり、革命の国際的拡大を阻む裏切りに映りました。彼らは連立を離脱し、独自の路線として「反独・反講和」を掲げます。
緊張は頂点に達し、1918年7月6日、左派エスエルの活動家ヤーコフ・ブリュムキンらがドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハをモスクワで暗殺しました。左派は同時にチェーカー長ジェルジンスキーの拘束、中央電信局の占拠など一連の行動に出て、ボリシェヴィキ政権を転覆し、対独再戦とソヴィエトの「真正化」を図ろうとしました。この「7月蜂起」は、モスクワの要所で短時間優位に立ったものの、赤軍・治安部隊の反撃に遭い、数日のうちに鎮圧されます。指導部の多くが逮捕され、党は非合法化へ追い込まれました。
蜂起は、左派エスエルの原理主義と現実政治の断絶を露呈しました。彼らは農村の怒りと都市の飢餓、ドイツの圧力という三重の危機のもとで、「革命的戦争」か「屈辱的講和」かの二者択一に自らを追い込みました。しかし内戦の準備に忙殺される国家機構を正面から敵に回し、武装行動で事態の逆転を図った判断は、短期的にも長期的にも致命的でした。以後、左派エスエルは断続的に地下活動や地方反乱への連絡を試みますが、統一的指導力を失い、影響力は急速に縮小します。
弾圧・亡命・転帰——指導者たちのその後と歴史的残響
7月以後、左派エスエルは逮捕・裁判・流刑の連鎖に晒されました。象徴的人物マリヤ・スピリドーノワは繰り返し拘束され、長く監禁・追放の生活を余儀なくされ、最終的には1941年に処刑されました。党の理論家の一人ボリス・カムコフも後年の粛清期に銃殺されています。司法人民委員を務めたイツハク・シュタインベルクは国外へ脱出し、亡命知識人として記録を残しました。ミルバッハ暗殺の実行者ブリュムキンは一時期赤色諜報に編入されますが、1929年にトロツキー人脈との接触を理由に処刑されました。
地方では、食糧徴発(プロドロズヴョールストカ)への反発や戦時共産主義の強権化に対し、農民反乱(いわゆる「緑の」運動)が点在しました。左派エスエルの旧ネットワークは、これらの抗争に思想的・人的に部分的な影を落としましたが、中央組織の崩壊と治安統制の強化の前に、持続的な政治勢力として結晶することはありませんでした。1922年の「エスエル裁判」は主として右派SR指導部を標的にしたものの、左派も早い段階で組織基盤を剥奪され、ソヴィエト体制下での合法的空間は閉ざされました。
歴史的評価では、左派エスエルはしばしば「十月革命のもう一つの顔」として言及されます。彼らは農民の要求とソヴィエト民主主義を重視し、非常措置の常態化に批判的でしたが、テロルと蜂起に頼る戦術の反復が、望んだ「合法性の回復」をかえって遠ざけた側面も否めません。ブレスト講和への倫理的拒絶は一貫していましたが、戦略としては現実的代案に欠け、国家生存と革命理念のジレンマを解けませんでした。とはいえ、土地の社会化と地方自治を柱とする政策構想は、後年の農村政策・協同組合論・分権論の比較参照項として今も意味を持ちます。
社会革命党の主流(右派)との違いについて補足すると、右派は議会主義と連合政権、戦争継続(防衛)を容認する傾向が強く、十月の武装蜂起には否定的でした。左派は十月後のソヴィエト政権を一定程度承認し、その内部から農民路線を貫徹するという戦術を採りましたが、講和問題で絶交に至ります。SRの別系譜である「マクシマリスト」は、1905年革命期からテロルと経済的直接行動を過激に主張したグループで、左派エスエルと名称は似つつも、組織・理論の連続性は限定的でした。こうした分岐は、同じ「農民の革命」を掲げながらも、国家・暴力・合法性への態度がいかに多様であったかを物語ります。
総じて言えば、社会革命党左派は、十月革命の熱の中で「農民の意思を国家へ」という急進民主主義的野心を最も強く押し出した主体でした。短い連立期に見せた政策志向は、村落の自治と合意に根ざした社会主義の可能性を示しつつ、戦時の非常政治と国際関係の圧力の前に敗れました。彼らの足跡は、革命が掲げる理想をどのような制度と手段で現実化するのか、暴力と合法性をどう調停するのかという普遍的な問いを、今なお私たちに投げかけ続けているのです。

