「小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)」とは、もともと大乗仏教側が、自分たちとは異なる仏教の伝統を批判的に呼ぶために使った言葉です。「小乗」とは文字どおりには「小さな乗り物」という意味で、「より多くの人びとを救う『大きな乗り物(大乗)』に対して、救いの理想が小さい」というニュアンスを込めた呼び方でした。主にインドやスリランカ、東南アジアに伝わった上座部系・部派仏教の伝統を指して使われることが多く、日本や中国では長いあいだ教科書にも登場する用語でした。
しかし現代では、「小乗」という言い方そのものに「他者の仏教を見下す呼び方」という批判が強まり、研究者や仏教徒のあいだではできるだけ避けられるようになっています。代わりに、「上座部仏教」「テーラワーダ仏教」「初期仏教」「部派仏教」など、より中立的な名称が用いられます。そのため、世界史や仏教史を学ぶ際には、「小乗仏教」という言葉が歴史的にはどのような意味で用いられ、現代ではどのように捉え直されているのかを理解することが大切になります。
以下では、まず用語としての「小乗仏教」がどのように生まれ、どのような意図を込めて使われたのかを見たうえで、大乗仏教側からの批判とその背景、上座部仏教との関係、そして現代の仏教学や宗教界におけるこの語の評価と扱われ方について、順を追って説明していきます。
「小乗」という言葉の意味と歴史的な使われ方
「小乗仏教」の「乗(じょう)」という字は、仏教では「人びとを悟りへ運ぶ教え・方法」をたとえる言葉として使われます。もともとインド仏教では、「乗り物に乗って向こう岸に渡る」というイメージで、悟りへの道を「乗」と表現しました。このうち、「大乗」は「多くの人びとを乗せて一緒に悟りへ導く大きな乗り物」、「小乗」は「少数だけを乗せる小さな乗り物」という比喩として使われるようになりました。
実際の歴史の中で「小乗」という呼び名を積極的に用いたのは、主に大乗仏教を名乗る側の学者や経典でした。大乗側は、自分たちの教えを「大乗」と呼び、それ以前から存在していた部派仏教(上座部系を含むさまざまなグループ)の教えをまとめて「小乗」と呼ぶことで、「大乗こそがより高い理想と深い智慧を備えた教えである」という主張を打ち出しました。つまり、「小乗」という用語は、自分たちと異なる仏教を外側から評価するラベルだったのです。
重要なのは、「小乗仏教」と呼ばれた側が、自分たちをそう名乗っていたわけではない、という点です。インドやスリランカの仏教徒たちは、自分たちの教えを「小乗」とは呼ばず、「上座部(テーラワーダ)」や、それぞれの部派の名称を用いていました。「小乗」はあくまで大乗側が外からつけた呼び名であり、相手を「理想が小さい」「自分の悟りだけを求める」と批判するニュアンスを含んでいたと言えます。
東アジアに仏教が伝わると、中国・朝鮮・日本などの学者や僧侶も、大乗経典の世界観に立って経典を整理しました。その中で、「大乗こそが完成された教えであり、それ以前の仏教は『小乗』である」という理解が広まり、仏教史を説明する際に「小乗→大乗」という発展の図式が用いられるようになります。日本でも近代以降の教科書や入門書で、「小乗仏教」「大乗仏教」という区分が当たり前のように使われてきました。
しかし、この図式は大乗側の自己理解に大きく依存しており、歴史的な実態ともずれがあることが次第に認識されていきます。その結果、現代の仏教学では、「小乗仏教」という言葉をそのまま価値判断抜きで使うことは難しくなってきました。
大乗仏教から見た「小乗」批判とその背景
では、大乗仏教はなぜ他の仏教を「小乗」と呼び、どのような批判を向けたのでしょうか。大乗仏教の立場からすると、自分たちの最大の特徴は「菩薩(ぼさつ)の道」を理想とした点にあります。菩薩とは、「自らも悟りを求めながら、同時にすべての衆生を救済することを誓う修行者」のことで、「自分だけが解脱するのではなく、他者の救いを優先する」という姿勢が強調されました。
これに対して、大乗側が「小乗」と呼んだ部派仏教の伝統では、修行者が阿羅漢(あらかん)となって個人的に解脱する道が重視されていると理解されました。大乗側は、「阿羅漢は自分の悟りを優先し、他者の救済には十分に目を向けていない」と批判し、より広い慈悲の実践を掲げる自分たちを「大乗」と呼んで区別したのです。
ただし、この批判は完全に客観的なものというより、大乗側から見たイメージに大きく依存しています。実際には、いわゆる「小乗」とされる側にも、慈悲や布施、他者の利益を重んじる教えは豊富にありますし、阿羅漢を目指す修行者も、しばしば他者の模範や導き手と見なされてきました。「小乗=自分勝手」「大乗=他者のため」という単純な対立は、現代の研究からするとかなり誇張された図式であることが明らかになっています。
一方で、大乗仏教の誕生には、当時の仏教教団のあり方への問題意識も反映していたと考えられます。出家者中心の教団が形式的な戒律や学問に偏りすぎて、在家信者や社会全体の苦しみに十分応えられていないのではないか、という反省が、大乗経典の中には色濃く表れています。その中で、「より多くの人びとを救う道=大乗」と、「個人の解脱を重視する従来の道=小乗」という対比が作り出された、と見ることもできます。
つまり、「小乗」という言葉は、大乗仏教が自らの理想を打ち出すプロセスの中で生まれた、内部批判の言葉でもあったのです。ただしその批判は、対象となった側から見ると、一面的で不公平なラベル付けにもなってしまいました。このバランスの難しさが、現代における「小乗仏教」という用語の扱いに影を落としています。
上座部仏教との関係:同一視の問題と現代の呼び方
世界史や仏教史の説明では、「小乗仏教=上座部仏教」といった形で、両者がほぼ同じものとして扱われることがあります。たとえば、「スリランカやタイ・ミャンマーなどに伝わった上座部系の仏教を小乗仏教、中国や日本・朝鮮に伝わった仏教を大乗仏教と呼ぶ」といった説明です。大まかな地域区分としては分かりやすいのですが、実際には注意が必要です。
第一に、「小乗」という言葉が大乗側の価値判断を含む呼び名であるのに対し、「上座部(テーラワーダ)」という呼び名は、その伝統に属する人びとが自ら使ってきた名称だという違いがあります。上座部の僧侶や信者の多くは、自分たちの教えを「小乗」と呼ばれることに違和感や反発を抱いており、現代では国際的な仏教対話の場でも「小乗」という呼称を避けるのが一般的になっています。
第二に、「小乗仏教」という言葉が指す範囲と、「上座部仏教」が指す範囲は必ずしも一致しません。歴史的には、インドには多数の部派仏教(説一切有部・法相宗のもとになった説一切有部系など)が存在し、これらの多くは大乗側から「小乗」と一括りにされました。その中には、現代の上座部とは異なる教理や修行体系を持つものも含まれていました。したがって、「小乗=上座部」としてしまうと、多様な部派仏教の姿が見えにくくなってしまいます。
こうした理由から、現代の仏教学や宗教間対話の文脈では、「小乗仏教」という言葉を極力避け、代わりに「上座部仏教」「テーラワーダ仏教」「初期仏教」「部派仏教」といったより中立的で具体的な用語を使う流れが強まっています。日本語の世界でも、教科書や参考書によっては「小乗仏教(=上座部仏教)」と併記したうえで、「『小乗』は蔑称であり、現在は用いない」と注記するケースが増えています。
このように、「小乗仏教」という言葉自体は歴史上たしかに用いられてきましたが、現代の視点からは、呼び方そのものが持つ偏りや問題点を理解したうえで使う必要がある、と考えられるようになってきています。
世界史・仏教史の中での位置づけと現代的な見直し
世界史や仏教史の学習では、「小乗仏教」という用語は主に「大乗仏教との対比」を説明するために登場します。古代インドの仏教が、その後どのように地域ごとの多様な展開を遂げたのかを簡潔に示すために、「インドからスリランカ・東南アジアへ広がった上座部系の伝統」と「インドから中央アジア・中国・朝鮮・日本へ広がった大乗系の伝統」という二つの大きな流れを区別する際に、「小乗」「大乗」というラベルが分かりやすく利用されてきました。
しかし、現代の研究では、こうした単純な二分法では仏教の歴史的な実像を十分に説明できないことが指摘されています。実際の歴史の中では、いわゆる「小乗」と「大乗」が明確に線引きされていたわけではなく、多くの地域で両者が重なり合い、相互に影響を与えながら発展していきました。インドや中央アジアの僧侶たちは、大乗経典を学びながらも部派仏教の戒律を守っていたり、同じ寺院で大乗・非大乗の経典が併存していたりする例も知られています。
また、「大乗=進歩的」「小乗=保守的・未熟」という見方も、近代以前の価値観や宗派対立をそのまま引きずっている面があります。大乗仏教にも様々な立場があり、その中には密教的な要素や呪術的な実践、国家権力との結び付きなど、必ずしも「理想的」とは言えない側面も存在します。一方、上座部系の伝統にも、倫理や冥想の実践を通じて深い内省と慈悲の実践を重んじる豊かな文化があります。
そのため、現代の歴史学・宗教学では、「小乗」「大乗」という言い方をそのまま採用するのではなく、「誰が、どの立場から、その言葉を使っているのか」を意識して扱うことが重視されています。たとえば、「大乗側が従来の教えを『小乗』と呼んで批判した」というのは歴史的事実ですが、その言い方自体が特定の価値判断に基づいていることを明示したうえで紹介されます。
日本語の学習用の文脈でも、近年は「小乗仏教」という用語が徐々に見直されつつあります。教科書によっては、「従来『小乗仏教』と呼ばれてきた上座部仏教」といった形で、歴史的用語と現代的呼称を併記し、「現在は『小乗』という呼び方は用いない」と明記するものも増えています。これは、用語の背景にある歴史的な差別性や宗派間の力関係を意識したうえで、より中立的で当事者への敬意を含んだ表現を目指す動きでもあります。
総じて、「小乗仏教」という言葉は、仏教の歴史の中で実際に用いられてきた重要な用語である一方、そのまま現代語として使うと誤解や不快感を招きかねない語でもあります。そのため、歴史的事実としてこの言葉がどう使われたかを理解しつつ、現在では「上座部仏教」「テーラワーダ仏教」「初期仏教」など、より中立的な呼称を用いるようになっている、という流れを押さえておくと、この用語の位置づけが見えてきます。

