「諸侯(ヨーロッパ)」という言い方は、ヨーロッパ世界において、国王や皇帝のもとで土地と支配権を持っていた多くの領主・貴族たちを、まとめて指すときに使われる表現です。日本語で「ヨーロッパ諸侯」といえば、だいたいは中世から近世にかけて、ドイツの諸侯(帝国諸侯)やフランス・イングランドなど各地の有力貴族・領主をイメージします。中国史の用語としての「諸侯」と同じく、「中央の君主のもとに、各地を治める半独立的な支配者たちが並び立っている状態」を説明するときに便利な言葉です。
ただし、ヨーロッパの「諸侯」は、中国の周王朝のような「封建制」とは仕組みがかなり異なります。ヨーロッパの場合は、土地と身分、そして主従関係が複雑にからみ合った「封建制度(フェーダリズム)」の中で、国王・諸侯・騎士・農民などのあいだにさまざまな契約と義務が積み重なっていました。また、ヨーロッパ諸侯の中には、名目上は皇帝や国王の家臣でありながら、実際にはほとんど独立国の君主のように振る舞う者もおり、その力関係は時期や地域によって大きく変化しました。
そのため、「ヨーロッパ諸侯」という表現は、厳密な法律用語というよりも、「中世・近世ヨーロッパで、王や皇帝のもとにいる多数の領主・貴族たち」という大づかみなイメージをまとめて表現する言葉だと理解すると分かりやすいです。以下では、まず中世ヨーロッパの封建制度と諸侯の基本的なイメージを整理し、つづいて地域ごとの特徴(とくに神聖ローマ帝国の諸侯)や、王権との関係の変化を見ていきます。そのうえで、近世以降の「諸侯」のあり方や、日本語としての「ヨーロッパ諸侯」という言い方のニュアンスについてもふれていきます。
中世ヨーロッパにおける諸侯の基本像
中世ヨーロッパでは、ローマ帝国の崩壊後、統一された強い中央政府が存在しない地域が多く、大土地所有と武力を握った有力者たちが、それぞれの土地を事実上支配していました。このような有力者は、伯(カウント)、公(デューク)、辺境伯、侯(マルクグラーフ)などさまざまな称号を持ち、地域ごとの長(ちょう)のような役割を果たしました。彼らは国王や皇帝から形式的には地位と領地を「授けられた家臣」でありながら、その地域では独自に税を集め、裁判を行い、軍隊を率いていました。
ヨーロッパの「諸侯」と呼びうる人びとは、こうした有力貴族・領主層を指します。彼らは単なる「地方役人」ではなく、「自分の城と領地、家臣団を持つ小さな君主」としてふるまうことが多く、農民たちは彼らの領地に属する「領民」として年貢や賦役を負いました。中世の農村では、農民は領主の保護と引き換えに義務を負う存在であり、領主は軍事的・司法的支配者として君臨していたのです。
このような諸侯と国王・皇帝との関係は、「封建的主従関係」ともよばれます。封建制度では、上位の主君が下位の家臣に土地(封土)や特権を与え、その見返りとして家臣が軍役や忠誠を誓う、という関係が基本でした。国王や皇帝も、究極的には「諸侯の中で最も位の高い領主」にすぎず、有力な諸侯の協力なしには戦争も政治も進められませんでした。この意味で、中世ヨーロッパは「諸侯たちのネットワーク」の上に成り立っていたと言うことができます。
ただし、ヨーロッパの封建制度は、中国のように「上から下へと土地を分け与えたピラミッド型の制度」として一括して理解するのは危険です。実際には、フランス、イングランド、ドイツ、イタリアなど各地域で、法制度や慣行の違いがありました。とはいえ、「国王―諸侯―騎士―農民」という大まかな階層構造と、「土地と軍役」を媒介とした主従関係という基本イメージは、多くの地域で共通していました。
封建制度と領主身分の構造
ヨーロッパ諸侯を理解するためには、封建制度の中での「身分」と「土地」の関係に目を向ける必要があります。中世ヨーロッパでは、王や皇帝が形式上は全体の最高支配者とされていましたが、実際には各地方の諸侯が自分の領地をほぼ自由に支配していました。この領地(封土)は、世襲によって子孫に受け継がれるのが原則であり、諸侯の家系は長期にわたり特定地域の支配者として君臨することが多かったです。
諸侯の下には、さらに小さな領地を与えられた騎士や下級貴族が存在しました。彼らもまた、自分の城や村を支配し、農民から年貢を取り立て、戦時には主君である諸侯のために騎兵として戦いました。このように、「上位の領主が下位の領主に土地と保護を与え、その代わりに軍役と忠誠を受け取る」という契約関係が、重層的に積み重なっていたのが封建社会の特徴です。
農民は、諸侯や騎士が支配する領地に縛り付けられた「農奴」として扱われることも多く、自由に移動したり土地を離れたりすることが制限されていました。農民は労働と年貢を負担し、その見返りとして領主から保護を受けるという関係に置かれていました。諸侯にとっては、領民の労働と収穫物が、城や軍隊、宮廷生活を支える経済的基盤となりました。
身分の構造という点から見ると、諸侯は「戦う人びと(貴族・騎士)」の最上層に位置づけられました。中世ヨーロッパ社会はしばしば、「祈る人(聖職者)」「戦う人(貴族)」「働く人(農民)」の三つの身分に分けられると説明されますが、その中で諸侯は、教会と並ぶ有力な支配層として領地と軍事力を持ちました。彼らはまた、城館文化や宮廷文化の担い手でもあり、騎士道、祝祭、文学、芸術など、中世文化の多くが諸侯の周辺で花開きました。
ただし、諸侯の権力はいつも安定していたわけではありません。領主同士の争いや相続問題、王権との対立などによって、領地の分割や没収が行われることもありました。戦争の勝敗や王朝の交代によって、ある諸侯が没落し、別の諸侯が台頭するというダイナミックな変化がくり返されました。そのため、諸侯の世界は固定的な身分秩序であると同時に、絶えず力が揺れ動く「政治の舞台」でもありました。
王権と諸侯の対立・協調―フランス・イングランド・ドイツ
ヨーロッパ諸侯の歴史を語る上で欠かせないのが、「王権との関係」です。中世から近世にかけて、多くのヨーロッパ諸国で、国王は諸侯の力を抑え、中央集権的な国家を築こうとしましたが、その成功の度合いは地域によって大きく異なりました。
フランスでは、カペー朝のもとで王権が少しずつ強化されていきました。中世前期のフランス王は、実際にはパリ周辺の直轄領を支配する程度の小さな君主にすぎず、ノルマンディー公やブルゴーニュ公などの大諸侯の方が、はるかに広い領地と軍事力を持っていました。しかし、王家は婚姻政策や戦争、行政改革などを通じて、徐々に諸侯の領地を取り込み、封建的な主従関係を国王と全国民の関係へと作り替えていきました。百年戦争などの大きな危機を乗り越える過程で、王権への忠誠を軸にした「フランス王国」という意識が強まり、諸侯は次第に「王に仕える高位貴族」として位置づけられていきます。
イングランドでは、ノルマン・コンクエスト以後、比較的早い時期から「王権の下に諸侯が従う」という構図がはっきりしていました。ただし、イングランドの諸侯(バロンたち)は、王に対しても一定の権利を主張し、ときには反乱や内戦を起こしました。マグナ=カルタ(大憲章)は、国王の専制を抑え、諸侯や都市の権利を保障する文書として有名です。のちには議会政治の発達により、貴族院(上院)に諸侯が座る一方で、国王の権力は憲法や慣例によって制約されるようになりました。
ドイツ地域(神聖ローマ帝国)は、ヨーロッパ諸侯の典型例としてよく取り上げられます。神聖ローマ皇帝は名目上は「キリスト教世界の皇帝」でありましたが、実際には各地の諸侯(公爵・選帝侯・司教侯など)が強大な権力を持ち、それぞれが半独立的な「領邦」を支配していました。とくに選帝侯は、皇帝を選ぶ権限を持つ有力諸侯であり、皇帝と対等に近い立場で政治に関わりました。神聖ローマ帝国は、しばしば「諸侯連合体」あるいは「諸侯のパッチワーク」とも形容されるほど、諸侯の自立性が高い政治体制だったのです。
このような背景から、日本語で「ヨーロッパ諸侯」と言うとき、とくに神聖ローマ帝国の「帝国諸侯(ライヒスフュルスト)」をイメージしていることが多いです。宗教改革や三十年戦争の過程では、諸侯が自らの領邦でルター派・カルヴァン派・カトリックなどの宗教を選択し、住民に対して強い影響力を行使しました。ヴェストファーレン条約以後、帝国諸侯は国際法上も一定の主体として認められ、「諸侯がほぼ小国家の君主として振る舞う」体制が確立していきます。
近世・近代のヨーロッパ諸侯と「諸侯」概念
近世に入ると、多くの国で王権の中央集権化がさらに進み、絶対王政のもとで諸侯・貴族は次第に王の官僚機構に取り込まれていきました。フランスのルイ14世は、ヴェルサイユ宮殿に貴族たちを集め、宮廷儀礼を通じて彼らを王の権威のもとに統制しようとしました。これにより、地方で自立的な軍事力を持つ「諸侯」としての側面は弱まり、王に仕える宮廷貴族・官僚貴族としての性格が強まります。
しかし、ドイツやイタリアのように、統一国家の形成が遅れた地域では、近世になってもなお「諸侯」がほぼ独立君主のようにふるまう状況が続きました。プロイセン公国、バイエルン選帝侯国、ザクセン選帝侯国など、多数の領邦国家が並び立ち、それぞれの君主(諸侯)が外交や軍事を担いました。ナポレオン戦争の前後には、こうした諸侯の多くが地位を失ったり格上げ・統合されたりしながら、ドイツ統一やイタリア統一の過程に組み込まれていきます。
近代に入っても、一部の国では「諸侯」に相当する貴族身分が名誉的な形で存続しました。プロイセン王国やのちのドイツ帝国では、旧来の諸侯や貴族が軍部や官僚として重要な役割を果たし、イギリスでも公爵・侯爵・伯爵などの称号を持つ貴族が、上院議員や地方の有力者として政治に関与しました。ただし、資本主義経済や市民階級の台頭、国民国家の成立とともに、諸侯・貴族の政治的独占は次第に薄れ、象徴的な存在へと変化していきました。
このような歴史をふまえて、日本語の世界史用語として「ヨーロッパ諸侯」と言う場合、多くは中世から近世にかけての「王や皇帝のもとで土地と軍事力を持ち、半独立的に領邦を支配する支配者層」を指して使われます。とくに、神聖ローマ帝国の帝国諸侯や、フランス・イングランドの有力貴族をまとめてイメージすることが多いです。「諸侯が割拠する」「諸侯が王権に反発する」といった表現は、「中央集権国家がまだ十分にできあがっておらず、多数の地方権力が並び立っている状態」をコンパクトに言い表す便利なフレーズになっています。
同時に、「諸侯」という言葉には、少し物語的・ロマンチックな響きもあります。城を構え、家臣や騎士に囲まれ、時に王に忠誠を誓い、時に反旗を翻す――そのような中世ヨーロッパのイメージが、「諸侯」という一語に凝縮されているからです。もちろん、現実の諸侯の世界は、権力闘争や搾取、戦争といった厳しい側面にも満ちていましたが、文学や歴史物語の中では、しばしば「諸侯」がドラマの主役として描かれてきました。
まとめると、「諸侯(ヨーロッパ)」という用語は、厳密な制度名というよりも、「国王や皇帝のもとで、各地の領地と軍事力を持っていた有力領主・貴族たち」を包括的に示す歴史用語です。その背後には、封建制度、王権との力関係、領邦国家の多様な姿など、ヨーロッパ史の大きなテーマが詰まっています。この言葉を手がかりに、中世から近代にかけてのヨーロッパの政治構造や社会のあり方を立体的にイメージしていくことができるでしょう。

