『新青年(しんせいねん)』とは、1915年に陳独秀(ちんどくしゅう)が上海で創刊した中国の雑誌で、新文化運動・五四運動の思想的中心となった刊行物です。創刊当初の誌名は『青年雑誌』でしたが、翌年に『新青年』と改題されました。儒教中心の旧来の価値観や科挙的な文章語(文言文)を激しく批判し、「民主(デモクラシー)」と「科学(サイエンス)」を掲げて、若い世代に新しい思想と生き方を呼びかけました。魯迅の『狂人日記』をはじめとする白話文学の作品が掲載され、中国近代文学・近代思想の出発点として大きな意味を持つ雑誌です。
『新青年』は、単なる文芸誌や思想誌ではなく、「どのような青年が、どのような社会をつくるべきか」を真正面から問う雑誌でした。創刊号に掲載された陳独秀の「敬告青年」は、「自主的であること」「進歩的であること」「世界に開かれていること」「科学的であること」など、青年に求められる六つの精神を掲げ、儒教的な孝や家父長制にもとづく「従順・保守・鎖国的」なあり方を批判しました。これらの主張は、中国社会を縛ってきた古い倫理や文体、学問のあり方に挑戦するものであり、「青年よ、古い中国から離れよ」という強いメッセージとして受け止められました。
やがて『新青年』には、胡適・魯迅・李大釗・銭玄同など、のちに近代中国を代表する思想家・文学者が次々と参加し、文学革命・白話運動・反儒教批判・新しい男女関係や家族観の議論など、多彩な内容が展開されました。1910年代後半には北京大学とも深く結びつき、新文化運動の主要な拠点として機能します。1920年代に入ると、雑誌は次第にマルクス主義に接近し、やがて中国共産党の機関誌としての色彩を強めていきました。『新青年』は、自由主義的啓蒙から社会主義思想への転換を含め、20世紀中国の知的な流れを映し出す鏡とも言える存在です。
『新青年』の創刊と新文化運動の出発
『新青年』が創刊されたのは、辛亥革命後の混乱期、中華民国初期の1915年9月です。辛亥革命によって清朝が倒れ、形式上は共和制が成立したものの、実際には袁世凱による独裁的な軍事政権が続き、地方では軍閥が割拠するなど、「政治体制は変わっても社会の中身は古いまま」という状況が続いていました。儒教的な身分秩序や家父長制、科挙文化に根ざした旧思想は、人びとの意識や日常生活の深いところで生き残っていました。
陳独秀は、当初は反清革命家として会党運動などに関わっていましたが、辛亥革命後の現実を見て、「単に政権をひっくり返すだけでは中国は変わらない」と痛感するようになります。彼は、政治革命だけでなく、「国民の精神と文化」のレベルでの変革が必要だと考え、新聞・雑誌を通じた啓蒙活動に重心を移しました。こうして、上海の租界という比較的言論の自由が保たれた空間で、『青年雑誌』(のちの『新青年』)を創刊するに至ります。
創刊号には正式な発刊詞はありませんでしたが、「改造青年の思想、輔導青年の修養を本誌の天職とする」といった趣旨が示され、政局批判よりも青年の精神的変革に重点を置く姿勢が明らかにされました。同じ創刊号に掲載された陳独秀の「敬告青年」は、『新青年』の精神を象徴する宣言文とされています。そこでは、「自主的であれ、奴隷になるな」「進歩的であれ、保守にとどまるな」「世界に向かえ、鎖国するな」「実利的であれ、空虚な文章に流されるな」「科学の精神を持て、空想に耽るな」といったスローガンが、簡明で力強い言葉で語られました。
1916年、『青年雑誌』は誌名を『新青年』に改めます。この改題には、「旧い青年観から、新しい青年観へ」「旧文化から新文化へ」という方向性を鮮明にする意図がありました。新しい誌名のもとで、『新青年』は「青年の思想改造と修養の指導」を使命とし、儒教的な旧道徳を批判しながら、欧米や日本の新しい思想・文学・科学を積極的に紹介していきます。これが、「新文化運動」の出発点とみなされるゆえんです。
1917年、北京大学の新学長に就任した蔡元培が陳独秀を文学部長として北京に招くと、『新青年』の編集本部も北京へ移りました。北京大学は「思想の自由・学問の独立」を掲げ、多くの若い教員・学生が集まっていました。『新青年』と北京大学は相互に支え合う関係となり、のちの五四運動の思想的な前線基地としての役割を果たしていきます。
雑誌の内容:文学革命・反儒教・民主と科学
『新青年』の紙面には、多様なテーマが取り上げられましたが、その中心には「旧文化から新文化へ」の大きな方向性が一貫していました。具体的には、次のような柱が挙げられます。
第一の柱は、文学革命運動です。胡適は「文学改良芻議」などの論文で、「難解な文言文ではなく、日常生活で話されている口語(白話)で文学を書くべきだ」と主張しました。彼は、白話文学の意義として、「庶民の感情や現実の生活をありのままに表現できること」「教育を受けていない人にも読みやすいこと」を強調し、形式美だけを重んじる八股文的な文章や、典故だらけの古文を批判しました。
こうした理念の実践例として、『新青年』には魯迅の短編小説「狂人日記」が掲載されました。これは、中国文学史上初の本格的白話小説とされる作品で、儒教的礼教を「人を食う」ものとして告発する強烈な内容を持っています。「狂人」の目を通じて、「歴史書の行間に『人を食う』という字が書いてある」と語らせる比喩は、儒教倫理と封建家族制度の暴力性を鋭く暴き、中国読者に大きな衝撃を与えました。この作品をはじめ、『新青年』が掲載した多くの白話作品が、「文学革命」を象徴する存在となりました。
第二の柱は、儒教批判と旧道徳の否定です。陳独秀や呉虞、銭玄同らは、『新青年』上で「孔教(儒教)とは何か」「家族制度は専制の根拠ではないか」といった議論を展開し、儒教中心の世界観を痛烈に批判しました。彼らは、儒教が二千年来の専制政治を支え、「孝」を名目に家父長的支配や女性の犠牲を正当化してきたと指摘し、「孔教を国教にしよう」という動きを厳しく退けました。
こうした反儒教の論調は、当時の中国社会の根本的な価値観を揺さぶるものでした。親への絶対服従や長幼の序を絶対視する倫理を疑い、男女平等・個人の尊厳・自由恋愛といった新しい価値観が、『新青年』の紙面を通じて広められていきます。そのため、『新青年』は保守派から激しい攻撃を受け、「伝統を破壊する危険な雑誌」と非難されましたが、その論争自体が新旧の価値観の対立を浮き彫りにしました。
第三の柱が、「民主(デモクラシー)」と「科学(サイエンス)」の掲揚です。陳独秀は、「徳先生(デモクラシー)と賽先生(サイエンス)」という比喩で、二つの「先生」を中国に招き入れることの重要性を訴えました。民主とは、人民が政治参加する権利と、個人の自由と平等を尊重する近代的な政治原理を意味し、科学とは、迷信や権威に頼らず、経験と合理的思考にもとづいて世界を理解しようとする態度を指します。
『新青年』の論者たちは、これまでの中国社会が、皇帝や聖人の言葉を絶対視し、実験や検証を軽視してきたことを批判しました。そのうえで、西洋の自然科学や社会科学の成果を積極的に紹介し、「中国も科学の精神を身につけなければ近代に立ち遅れる」と訴えました。この「民主と科学」というスローガンは、新文化運動と五四運動を通じて広く知られるようになります。
加えて、『新青年』は欧米・日本の文学・思想・哲学・社会主義などの紹介にも力を入れました。イプセンやロマン・ロラン、トルストイ、マルクスらの思想・文学作品が翻訳・紹介され、中国の若い読者は世界の新思潮に触れる機会を得ます。これらの動きは、中国の知識人たちが自国の伝統を批判的に見直しつつ、世界と接続した新しい文化を模索する「窓」となりました。
五四運動・マルクス主義との接近と終刊まで
1919年の五四運動は、『新青年』と北京大学を中心に育まれてきた新文化運動が、学生・労働者・市民を広く巻き込んだ政治運動へと飛躍した出来事でした。ヴェルサイユ条約で日本の山東権益承認が決まると、北京の学生たちは「山東還我」を叫びながら抗議デモを行い、その背景には、中国の半植民地状態と弱体な政治への怒りがありました。『新青年』に集った知識人たちは、この運動を支持し、反帝国主義・反軍閥の立場から論陣を張りました。
五四運動を契機として、『新青年』の論調は次第に社会主義、特にマルクス主義へと傾いていきます。李大釗は、『新青年』上で「庶民的勝利」などの文章を発表し、ロシア革命を「労働者と農民が主役となる新しい時代の始まり」として評価しました。陳独秀自身も、当初は自由主義的啓蒙を主張していましたが、次第に資本主義批判と社会主義への関心を強め、中国の問題を階級闘争や社会構造の観点から分析するようになっていきます。
1920年頃から、『新青年』は中国共産党組織の形成と密接に結びつきます。上海では陳独秀を中心に共産主義小組が結成され、その議論や宣伝の一部が『新青年』の紙面を通じて発信されました。1920年以降、『新青年』は事実上中国共産党の機関誌としての性格を強め、マルクス主義の紹介や階級闘争をめぐる論考が増えていきます。こうして、雑誌は自由主義的啓蒙から革命的社会主義へと、内容を変化させていきました。
一方で、この変化は『新青年』内部の多様性を減じる結果ももたらしました。胡適などの自由主義的論者とのあいだには路線対立が生まれ、かつての「幅広い新文化論壇」としての性格は次第に薄れていきます。魯迅も、のちに共産党との距離を意識しながら活動しますが、その出発点が『新青年』にあったことは変わりません。
『新青年』は、1920年代半ばにかけて発行が続けられましたが、政治状況の変化や編集体制の移行もあり、1926年に終刊を迎えました。創刊からおよそ10年余りの活動期間のなかで、『新青年』は中国の知識世界と政治運動に巨大な足跡を残しました。終刊後も、その論文や作品はさまざまな形で再刊・研究され、中国近現代史を語るうえで欠かせない資料となっています。
『新青年』の歴史的意義
『新青年』の歴史的意義は、いくつかの側面から整理することができます。第一に、「青年を主語にして社会変革を語った」という点です。雑誌名が示すように、『新青年』は国家や指導者ではなく、「青年」を変革の主体として位置づけました。陳独秀の「敬告青年」は、青年に対して「古い権威に従属するのではなく、自ら考え、自ら選び、自ら行動する個人になれ」と呼びかけています。このメッセージは、その後の中国の学生運動や青年運動の原型となり、「青年は社会変革の先頭に立つべきだ」というイメージを強く残しました。
第二に、『新青年』は中国の近代文学と思想の言語を変えました。文言文中心の世界から白話へという転換は、単なる文体の変化ではありません。それは、「古典に通じたエリートだけが理解できる言葉」から、「庶民も含め多くの人が共有できる言葉」へのシフトであり、知識や感情の表現をより民主的なものにしました。魯迅の『狂人日記』は、その象徴的な成果であり、以後の中国文学は白話を基本とする流れへと大きく舵を切っていきます。
第三に、『新青年』は旧来の儒教的価値観を批判し、個人の自由・平等・人格の尊重を前面に押し出しました。家族制度や性倫理、女性の地位などをめぐる議論は、中国社会の深部にあるタブーに踏み込むものでした。こうした議論の積み重ねは、五四運動以降の婦人解放運動や、家族法の改革にもつながっていきます。もちろん、儒教批判が必ずしも伝統のすべてを否定することにつながったわけではありませんが、この時期の急進的な批判は、その後の「中国とは何か」という自己理解の枠組みを大きく変えました。
第四に、『新青年』は中国の近代革命運動の思想的な揺りかごでもありました。自由主義的啓蒙から社会主義への移行、国民国家の理念と階級解放の理念の交錯など、20世紀中国政治を特徴づける多くの要素が、『新青年』の紙面に萌芽として現れています。中国共産党が党史のなかで、新文化運動と『新青年』を重要な源流として位置づけるのは、そのためです。
最後に、『新青年』の経験は、「雑誌」というメディアが持つ力を示しています。一冊の雑誌が、既存の価値観を批判し、新しい思想や文学を紹介し、さまざまな論者を結びつけることで、社会全体の意識を大きく揺さぶることがあり得る、という事例です。現代の私たちから見れば、発行部数や読者数は決して膨大ではなかったかもしれませんが、その影響力は読者の質と時代状況によって何倍にも増幅されました。
世界史のなかで『新青年』を学ぶことは、中国近代化の思想的側面――政治体制の変化だけでは捉えきれない、「ことば・価値観・日常意識の変化」を理解することにつながります。青年たちが雑誌のページを通じて世界と出会い、古い自分たちを批判し、新しい自分たちをつくろうとした、その過程を追うことは、時代や地域をこえて普遍的な意味を持っていると言えるでしょう。

