イラン立憲革命 – 世界史用語集

イラン立憲革命は、1905年から1911年にかけて当時のカージャール朝の専制政治に対して、人びとが「法律に基づく政治」と「議会」を求めて動き出した大きな変化のことです。商人や宗教指導者、学生、職人などが力を合わせ、国王一人の判断ではなく、憲法と議会で国を動かす仕組みを作ろうとしました。結果として「マジュレス(国会)」が開かれ、「憲法」が定められましたが、反対する勢力との衝突や外国勢力の圧力も強く、道のりは決して平坦ではありませんでした。

当時のイランは、財政難や物価高騰に苦しみ、ロシアやイギリスに経済的・政治的に影響されていました。税の取り立てや特権的な利権の付与が不公平だと感じた人びとが抗議を重ね、やがて「正義の家(アダラト・ハーネ)」と呼ばれる不正をただす公の場、さらには議会の設置を求める声が広がりました。こうした流れの中で、1906年に最初の憲法が公布され、議会政治がスタートしました。

しかし、新しい政治のしくみは、すぐに安定したわけではありません。憲法に反対する国王や軍の一部、そして外国の支援を受けた勢力が議会を武力でつぶそうとし、内戦のような状況が生まれました。地方の民兵や部族勢力が議会側を支え、首都を奪還して立憲体制を回復させるなど、波乱が続きました。

最後は、財政改革をめぐる対立と外国の圧力で議会が閉鎖され、革命はひと区切りを迎えます。それでも、専制に歯止めをかけ、法のもとに政治を行うという考え方は社会に深く根づきました。イラン立憲革命は、短期的には揺れ動きの連続でしたが、政治の土台を変えようとする市民の試みとして大きな意味をもちました。

この出来事は、イランだけの特別な話ではなく、同じ時代に世界各地で起きた「専制から立憲へ」という流れと響き合っています。市井の人びとが税や物価、生活の不安から声を上げ、やがて政治のしくみを作り変える動きにつながっていく点は、多くの国で見られた共通の特徴でした。イランの場合は宗教指導者、商人、地方の戦士的集団など異なる層が協力と対立を繰り返しながら、独自のバランスを探ったところに特色がありました。

以下では、なぜそのような運動が起こったのか、どのように憲法と議会が生まれたのか、反動や内戦の経過、そして革命がひとまず終息するまでの道筋を、もう少し詳しく見ていきます。

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背景――専制、経済危機、そして社会の活性化

19世紀末から20世紀初頭のイラン(ペルシア)は、カージャール朝のもとで財政が慢性的に不足していました。王室の出費や官僚機構の維持、近代化のための借款などが重なり、国家はロシアやイギリスからの借金に依存するようになりました。外国資本に利権を与える「コンセッション(特許・特権)」も相次ぎ、国内産業や商人は圧迫され、不公平感が広がりました。

この不満は1891~1892年の「タバコ・ボイコット運動」で早くも表面化しました。イラン全土の喫煙や取引を止めることで、タバコ独占権を外国に与えた政策に抗議したのです。聖職者が宗教的な禁止令を出し、商人と一般市民がこれに応じて一致団結したことで、運動は成功し、特権は撤回されました。この経験は、人びとが協力すれば政治を動かせるという手応えを社会にもたらしました。

20世紀に入ると、物価の高騰と重税、税関の管理に外国人を登用する措置などが、さらに怒りを広げました。市場(バザール)の商人が痛めつけられた事件をきっかけに、宗教施設への避難(バスト)や街頭でのデモが相次ぎます。人びとはまず「正義の家(アダラト・ハーネ)」の設置を求め、官僚の汚職や不正を監督する場を手に入れようとしました。やがて要求は議会の創設へと発展し、法にもとづく政治(マシャルーテ=立憲)を求める声が高まっていきました。

運動を支えたのは、宗教指導者(ウラマー)、市場の商人や職人、新聞を発行する知識人、そして地方の有力者たちでした。新聞やパンフレットは政治議論の場を広げ、電信(テレグラフ)は各地の連絡を密にしました。首都テヘランだけでなく、アゼルバイジャン地方のタブリーズやカスピ海沿岸のギーラーンなど、地方都市も活発に動き始めました。

憲法の制定と議会政治の出発

1906年、圧力に押された国王は議会の開設を認め、テヘランで「マジュレス(国会)」が開かれました。同年末には基本法にあたる憲法が公布され、翌1907年には補足条項が定められました。ここでは三権の枠組みや議会の権限、国王の権限の制限、臣民の権利などが規定され、専制のもとでも法に基づく統治を志向する新しい政治の形が示されました。議会は予算と税の承認権を持ち、政府の活動を監視することが定められました。

憲法の起草では、当時の欧州で広く評価されていた制度が参照されました。とりわけベルギー憲法がモデルとして知られ、議会中心主義や権力分立の考え方が取り入れられました。同時に、イスラーム法(シャリーア)との調和も意識され、法律が宗教の原理に反しないよう監督する仕組みが条文に盛り込まれました。この折衷は、伝統と近代の両立を模索する当時のイラン社会の姿をよく映し出しています。

議会の内部では、商人・知識人・宗教者・地方代表など多様な人びとが議席を占め、政治的な議論が活発に交わされました。新聞は議会審議を報じ、都市のカフェやモスク、バザールで政治談義が日常化しました。これまで閉ざされていた国家財政の実態も議会で問いただされ、政府の入出金や借金の管理が公開の課題になりました。

ところが、憲法体制は発足直後から強い抵抗に直面しました。王権の縮小をよしとしない人びと、宗教と新法の関係に不安を抱く人びと、そして何よりも既得権を失う官僚や軍の一部が、議会の足を引っ張りました。さらに1907年の英露協商はイランを北部のロシア勢力圏、南部のイギリス勢力圏、中部の緩衝地帯に分けるかたちで外から縛り、国内政治に影響力を行使しやすくしました。憲法政治を支えるには、対外的な自立と財政再建が欠かせませんでしたが、そこにこそ最大の障害が横たわっていたのです。

反動と内戦――議会砲撃、地方の抵抗、王の退位

1907年に即位したモハンマド・アリー・シャーは、憲法に否定的でした。1908年6月、彼はロシア人将校が指揮するコサック旅団を用い、テヘランの議会を砲撃させました。議会は閉鎖され、指導的な立憲派は逮捕・処刑・亡命と厳しい弾圧にさらされました。いったんは専制への逆戻りが現実味を帯びたのです。

それでも運動は各地で息を吹き返しました。タブリーズではサッタール・ハーンやバーゲル・ハーンらが市民部隊を組織し、包囲と飢餓に耐えながらも抵抗を続けました。カスピ海南岸のギーラーンやマーザンダラーンでは、地方の有力者や民兵が立ち上がり、憲法派の拠点が形成されました。バフティヤーリー部族の戦士たちも西部から進軍し、首都奪還の準備が進みます。

1909年7月、ギーラーンの指導者モハンマド・ヴァリー・ハーン(トネカーボニー)や、バフティヤーリーのアリー・ゴリー・ハーン(サルダール・アサド)らが率いる連合軍がテヘランに入城しました。国王は退位に追い込まれ、幼いアフマド・シャーが後継として擁立されました。議会は再開され、立憲体制はふたたび名目上の勝利を収めましたが、課題は山積みでした。各地の自警団や民兵が武装を維持し、中央政府の統治は必ずしも行き届いていませんでした。

この時期、憲法派は国家財政の立て直しに本気で取り組みました。外国の利害に縛られない財政をめざし、アメリカ人の財政顧問を招くなど、税の徴収や予算の透明化に踏み出しました。ところがこれが、ロシアやイギリスの強い反発を招きます。彼らは自らの勢力圏での影響力が削がれることを恐れ、軍事的な威圧や最後通牒を突きつけ、改革の中止と顧問の追放を要求しました。

終息とその後――議会閉鎖、近代政治の「種」が残したもの

1911年末、外国の最後通牒が突きつけられると、議会は拒否の姿勢を示しました。しかし圧力は強まり、テヘランでは再び軍事行動が展開され、議会は解散に追い込まれました。タブリーズなど北西部ではロシア軍の介入があり、憲法派の活動家が処刑される悲劇も生まれました。こうして1905年に始まった立憲革命は、表向きには終息を迎えます。

それでも、運動が残したものは小さくありません。第一に、国王の権限を法で制限し、議会による予算審議や租税承認を制度化した経験は、その後の政治的選択肢として社会の記憶に刻まれました。第二に、新聞やパンフレット、電信を通じた全国的な議論の場が育ち、政治に関わる言葉や手続きが広まりました。第三に、宗教と近代法、中央と地方、部族勢力と都市住民など、多様な要素が交差しながら妥協点を探るという、イラン社会ならではの政治文化が試されました。

一方で、立憲政治が安定しなかった原因もはっきりしました。国家の財政基盤が弱く、対外依存を断ちきれなかったこと、軍と治安の統制が中央政府に十分なかったこと、利権をめぐる既得権益層の抵抗が強固だったことです。さらに英露協商のように、列強がイランを勢力圏に分割して干渉した構図は、国内の勢力争いを複雑化させ、妥協を難しくしました。これらの条件は、立憲革命を「一度の勝利」で完結させない重荷となりました。

革命の指導層にも多様な立場がありました。憲法を支持しつつ宗教の役割を重視する人、経済の自由化と外国依存からの脱却を唱える商人、教育や司法の近代化を推す知識人、そして地方の秩序を守ることを優先する部族の指導者などです。彼らはある局面では協力し、別の局面では対立しました。宗教者の中にも、立憲を支持する人と、宗教的権威の低下を恐れて批判する人がいました。この内なる多様性こそが運動の広がりを支えた反面、統一的な意思決定を難しくしたのも事実です。

1911年以降も、議会と憲法の枠組みは完全に消え去ったわけではありません。政治の現実は反動や軍事的専制に揺れながらも、法の言葉と手続きは世代を超えて受け継がれました。都市の学校や新聞、法廷や官庁の業務の中に、憲法体制で試みられた作法が残り、人びとのあいだで「国家は説明責任を負うべきだ」という感覚が育ちました。立憲革命は短い期間の出来事でありながら、政治を考える基準を社会に提供したという意味で、長い影を落としたのです。

このように、イラン立憲革命は、専制と立憲のせめぎ合い、国内の多様な利害、外国勢力の圧力が重なり合う中で進みました。経済危機から始まった市民の不満が、宗教者や商人、知識人、地方の戦士たちを結びつけ、憲法と議会という新しい枠組みを生み出しました。反動と内戦によって大きく揺さぶられ、最終的には外圧で後退を余儀なくされたものの、政治を法に結びつける試みは、その後の時代へ確かな「種」を残しました。イランの近代史を理解するうえで、この革命が示した課題と経験は、今もなお重要な手がかりであり続けています。