インドシナ戦争は、第二次世界大戦後の1946年から1954年まで、フランスとベトナム民主共和国(ベトミン)を中心とする勢力がフランス領インドシナの将来をめぐって戦った武力紛争を指します。戦場はベトナム北中南部にとどまらず、ラオスやカンボジアにも広がり、冷戦初期の国際政治と結びついて拡大しました。序盤は都市・鉄道・デルタを押さえるフランスと、農村と山地に根を張るベトミンの「人民戦争」が拮抗し、1950年以降は中国革命の成功と米国の軍事援助で戦争は一段と国際化します。最終局面ではナヴァール計画のもとでフランス軍がディエンビエンフーに要塞化陣地を構えましたが、1954年春の大包囲戦で敗北し、同年のジュネーヴ休戦協定で戦闘は終結しました。結果として、北緯17度線を暫定軍事境界としてベトナムは北と南に事実上分かれ、ラオスとカンボジアも独立国家としての枠組みへ移行します。本項では、背景と開戦、戦局の推移、国際化と決定的転機、停戦と帰結の四つの観点から、用語理解に必要な要点を整理します。
背景と開戦:植民地支配の再来か、民族独立か
第二次大戦の終盤、日本が仏印で仏軍を武装解除した明号作戦(1945年3月)により、宗主国フランスの統治は一時的に空白となりました。ベトナム北部ではベトミンが八月革命を成功させ、ベトナム民主共和国(DRV)が独立を宣言します。しかし戦後処理の枠組みでは、北緯16度以南の日本軍武装解除を英軍、以北を中国国民党軍が担当し、各地で複雑な力学が生まれました。フランスはインドシナ連合の復活を目指して遠征軍(ルクレール師団など)を派遣し、英軍の支援を受けて南部サイゴンに再進駐、行政と港湾・鉄道の掌握を進めます。ベトミンは「独立承認を前提にした協定」を模索しつつも、主権や治安権限をめぐる交渉は難航しました。
決定的な破局は1946年末に訪れます。北部港湾都市ハイフォンでの税関・通行をめぐる衝突が拡大し、フランス側の砲撃で多数の犠牲が出ると(11月)、緊張は一気に臨界に達しました。12月19日夜、ハノイでベトミン側が一斉蜂起を行い、発電所・警察署・兵営への攻撃と市街戦が始まります。これをもってインドシナ戦争は本格的に開戦し、DRV政府は山岳の安全圏へ退避、都市部はフランスが押さえ、農村と山地ではゲリラと基礎政権の建設が進む「二重権力」の様相を呈しました。
初期の力関係は明白でした。フランスは海空軍と機械化戦力、砲兵、植民地軍・外人部隊を動員して主要都市と交通線を確保し、デルタや沿岸の米作地帯、北部の鉱業地域に拠点を築きました。他方、ベトミンは都市から撤退して「人民戦争」の原則に立ち戻り、村落に人民委員会を整備して徴糧・徴募・保安・裁判・識字教育を進め、山岳の道や密林の中に長距離の連絡路と補給網を張り巡らせます。
戦局の推移:山岳の反攻、デルタの攻防、ラオス・カンボジアへの拡大
1947年秋、フランスは「ベトバック作戦」を発動し、DRVの根拠地がある北部山岳(ベトバック)に空挺・河川・陸路から同時侵入して指導部の捕捉を狙いました。短期的に幾つかの拠点を制圧したものの、ベトミンは機動と陽動で包囲を回避し、山岳の地形と住民の支援を生かして持久戦に成功します。以後、フランスはデルタ防衛と交通線の確保に重点を移し、要塞化陣地や河川哨戒、鉄道・道路の護衛に資源を投入しました。
戦争の性格が一変したのは1950年です。中国大陸で中華人民共和国が成立し、国境を接するDRVは武器・弾薬・訓練・顧問の支援を受けられるようになりました。秋の国境戦役では、ベトミンが国境沿いの仏軍拠点を各個撃破し、要衝のロケット街道(RC4)で補給路を分断、ランソン方面の陣地網を崩壊させました。これによりベトミンはカオバン—ランソン—ラオカイ方面の「開門」を達成し、北方からの大規模補給と部隊整備の道が確立します。
1951年以降、フランスはド・ラトル・ド・タシニー総司令官の下で「デルタの防壁(ド・ラトル線)」を構築し、レッドリバー・デルタの防衛と反攻を試みました。ホアビン方面の戦いでは一時的に攻勢をかけましたが、ベトミンは補給線を脅かす機動を続け、疲弊を強いらせます。フランス側はバオ・ダイを国家元首とするベトナム国(後の南ベトナム国家)を樹立し、現地軍の育成で主権移譲の道筋を示そうとしましたが、戦況挽回には至りませんでした。
戦火はラオス・カンボジアにも及びます。ラオスではパテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)が北東部に根拠地を置き、メコン上流域や山岳地帯で活動を展開しました。カンボジアではクメール・イスララク(自由クメール)などの民族勢力と左派グループが各地で蜂起とゲリラを行い、仏軍は広域で治安維持に追われます。フランスはインドシナ連合の枠内で三国の「独立」を形式化しつつ、実際には軍事・外交の要を握り続けるという折衷策を取りましたが、戦場の拡散は止まりませんでした。
国際化と決定的転機:米援助、人民戦争の成熟、ディエンビエンフー
1950年以降、米国は「封じ込め」戦略の一環としてフランスとバオ・ダイ政権への軍事・経済援助を拡大し、サイゴンにMAAG(米軍事援助顧問団)を設置しました。補給車両、通信、火砲、航空機、物資補給のシステムが強化され、フランス軍の一部は米式の装備・指揮体系に移行していきます。しかし、広大な戦域での護衛・拠点防衛・住民保護は兵力を食い、戦力の分散は避けられませんでした。
対照的に、ベトミンは人民戦争の三段階—遊撃・機動・正規—を移行させつつ、砲兵や対空火器、工兵、通信の能力を飛躍させました。補給では、女性と青少年を含む膨大な担架隊・自転車輸送隊・筏輸送が編成され、夜間の偽装と擬装で砲と弾薬が山岳路を越えて前線へ送り込まれました。政治面では、農村での土地改革の準備や徴税・徴糧、治安組織の強化が進み、基層からの動員が持続可能なものへと成熟します。
この力学が最も劇的にぶつかったのが、1953年末から1954年春にかけてのディエンビエンフーの戦いです。ナヴァール総司令官は、北西高地の要衝に大規模空挺を投下して盆地に要塞化陣地群を築き、ベトミンの機動を誘引して決戦で撃破する構想を立てました。しかし、ベトミンは重砲を分解して峻険な尾根に引き上げ、周到な塹壕接近と壕道、対空火網で仏側の航空補給優位を削ぎ、順次拠点を孤立・陥落させていきます。最終的に5月、仏軍主力は降伏し、インドシナにおける軍事的主導権は決定的に崩れました。
停戦と帰結:ジュネーヴ協定、暫定分割、次の戦争への橋渡し
ディエンビエンフー陥落ののち、スイスのジュネーヴで多国間会議が開かれ、1954年7月に休戦協定が成立しました。協定は、ベトナムについて北緯17度線付近を暫定的な軍事境界線とし、両側の軍隊を集結・再配置ののち、全国選挙によって統一政府を樹立する道筋を定めました(選挙実施は2年以内を想定)。ラオスとカンボジアでは、停戦と外国軍の撤退、国内の政治過程尊重が確認されます。米国と南ベトナムの代表は正式署名を避けつつも、協定の不履行を一方的に拡大解釈しない旨の宣言を出しました。
現実の帰結は複雑でした。北部のDRVはハノイに戻って国家建設を本格化し、土地改革と工業化・教育普及を進めました。南ではバオ・ダイのもとにゴ・ディン・ジエム政権が権力を集中し、選挙の前提となる統一協議は停滞します。大量の住民が北から南、南から北へと移動し、とりわけカトリック系住民の南下が社会構造に大きな影響を与えました。ラオスではパテート・ラーオの拠点地域が残り、政治連合をめぐる駆け引きが続きます。カンボジアは独立を確立する一方、地方の武装勢力の火種は消えませんでした。
国際政治の視点では、インドシナ戦争は植民地帝国の再建構想が頓挫し、民族自決と冷戦が交錯する新秩序の形成に拍車をかけた出来事でした。米国は直接介入を避けつつも軍事・経済援助を通じて南の体制を支え、ソ連・中国は北の外交・軍事を後方から支援しました。こうして停戦は、実質的には「第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)」へと連結する中間点となったのです。
社会面では、長期戦の犠牲が深い爪痕を残しました。農村では徴発と空襲、地雷と不発弾、都市では治安と検問、インフラ破壊と物資不足が続きました。他方、識字教育や村落の自治組織、軍事衛生と輸送の改善、女性の社会参加といった変化も同時に進行し、戦後の国家形成に多面的な影響を与えました。亡命・避難・移住の流れは、ディアスポラと都市化を促し、宗教共同体や地域ネットワークの再編を伴いました。
総じてインドシナ戦争は、植民地支配の再編を望む勢力と民族独立を求める勢力、そして冷戦の大国が交差する場で展開した「政治・軍事・社会の総合戦」でした。ゲリラと正規戦、宣伝と外交、農村動員と都市統治、国内政治と国際援助—これらが同時並行で絡み合い、最終的にはディエンビエンフーとジュネーヴで帰趨が定まりました。しかし、それは終わりではなく、次の戦争への橋渡しでもあったのです。用語として学ぶ際には、ベトナムだけでなくラオス・カンボジアの戦線と、住民の移動・社会変容まで含めて立体的に捉えることが大切です。

