『史記』 – 世界史用語集

『史記』は、前漢の史官であった司馬遷(しばせん/紀元前145ごろ〜前86ごろ)が、父の司馬談の遺志を継いで編纂した全130巻の通史です。黄帝に始まる上古から司馬遷自身の同時代に至るまでを、皇帝や諸侯、名将、策士、商人、侠客に至るまで幅広い人物と出来事で描き分けました。叙述形式はそれまで主流だった編年体ではなく、人物を縦糸に時代を横糸として織る「紀伝体」を確立した点が最大の特徴です。構成は「本紀」「表」「書」「世家」「列伝」の五部からなり(いわゆる五体)、権力の中枢だけでなく社会の周縁をも視野に入れて、歴史を生きた人間の営みとして立体化しました。文学的にも卓越し、とくに『刺客列伝』『貨殖列伝』『項羽本紀』『陳涉世家』などは名文として長く読まれ、東アジアの史書・文学・政治文化に大きな影響を与えました。要するに『史記』は、史実の記録であると同時に、人間と時代の相互作用を描く壮大な叙事であり、以後の正史編纂の模範となった古典です。

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成立と作者――司馬遷の生涯と編纂の動機

『史記』の発意者は太史令(天文・暦・記録を司る官)であった司馬談でした。彼は諸子百家や古代王朝の盛衰に強い関心を持ち、過去の記録を統合し、天の道と人の事の関係を見通す「通史」を構想しました。しかし司馬談は武帝の元封元年(前110)に死去し、遺命を子の司馬遷に託します。司馬遷は各地を遊歴して伝承や碑文、地理や風俗を実見し、宮廷に収蔵された文書・記録や諸家の編年を渉猟して材料を集めました。

編纂の渦中、司馬遷は李陵(匈奴との戦いで降伏した将軍)をめぐる弁疏で武帝の怒りを買い、宮刑に処せられます。彼は名誉ある死よりも父の遺業完成を選び、「辱を忍んで文を成す」覚悟で執筆を続けました。この体験は、『史記』全体に流れる人間理解の広さ、勝者だけでなく敗者にも光を当てる姿勢に結びついています。彼は「太史公曰」と自らの所見を節々に挿入し、事実の配列に留まらず、その背後にある因果や人物の気骨を評価しました。

完成年代は明確ではありませんが、おおむね武帝末から昭帝期(紀元前1世紀前半)にかけて段階的に仕上げられました。資料批判と実地調査、さらに体験に根差した人物洞察が重ねられ、単なる王朝記録の域を超えた総合史が出来上がったのです。

構成と体裁――五体一貫の設計と代表的篇目

『史記』は全130巻で、五つの部門から構成されます。第一の「本紀」12巻は、王者・帝王の事績を中心に時代の骨格を示す部分で、夏・殷・周から秦・漢に至るまでの統治の大枠を描きます。特異なのは、皇帝ではない項羽をあえて『項羽本紀』として本紀格に据えたことです。司馬遷は項羽を時代の転換点を体現する「覇者」とみなし、劉邦(高祖)と対置して歴史の推進力を浮かび上がらせました。

第二の「表」10巻は、年次や人物を見通す対照表の体裁を取り、諸侯の興亡や官僚登用、爵位・封建の推移などを一望できるように並べました。叙述を縦横に往還する読者にとって、表は時系列と人物関係の羅針盤として機能します。

第三の「書」8巻は、礼・楽・律暦・河渠(治水)・平準(経済)など、国家運営の制度と文化を主題別に扱う章です。政治・社会の基盤を扱うことで、事件や人物の背後にある構造が見えるよう工夫されています。制度史的な視角を史書の中に明確に組み込んだ意義は小さくありません。

第四の「世家」30巻は、周代以来の有力諸侯や漢代の功臣家の歴史をまとめた部分で、王朝史と地方勢力、宗族の連続性を架橋します。『陳涉世家』では最下層の蜂起が大勢を揺るがす力を持つことを描き、『呉太伯世家』では徳に基づく権威の継承を語ります。ここには、血統と功績、徳と権力の相克が凝縮されています。

第五の「列伝」70巻は、士・将・策士・商人・侠客など、多彩な人物群像の伝記で、『刺客列伝』『游侠列伝』『滑稽列伝』『貨殖列伝』『酷吏列伝』などがよく知られます。ここで司馬遷は、社会の周縁にある行為者に独自の視線を注ぎ、統治の理想や儒家的規範では掬い切れない人間の情と利を描き出しました。とりわけ『貨殖列伝』は富の形成と商業活動を肯定的に叙述し、儒教的価値観の一方的な軽侮を相対化する名篇として評価されています。

この五体は、それぞれが独立しつつも相互に連関します。本紀で時代の幹を示し、表で流れを俯瞰し、書で制度を説明し、世家と列伝で枝葉の人物群像を配置する――こうした設計により、読者は多層的に歴史を理解できるのです。

叙述の特徴――紀伝体の確立と人間観の広がり

『史記』は中国史における「紀伝体」を確立しました。これは、統治者の事績(紀)と個々の人物の伝記(伝)を組み合わせ、時代の構造と人間の生を二重写しにする方法です。編年体が年次ごとの出来事の羅列に傾きがちなのに対し、紀伝体は人物の選択と責任、縁と偶然を描き込むことで、歴史の動因を「人」に取り戻しました。司馬遷は、功罪併記・褒貶混在の筆致を貫き、名将・名臣の失敗や、敗者の気骨をも書き留めます。

彼の叙述は、資料批判と物語性の均衡に特徴があります。伝承をただ信じるのではなく、異説を併記し、出典の差異を示しながら、最後に「太史公曰」で自らの判断を提示します。同時に、会話体や情景描写を用いて人物の心の動きを立ち上げ、歴史を単なる記録から生きたドラマへと変換しました。『鴻門宴』の緊張感、『荊軻の易水』の悲壮、『伯夷・叔斉列伝』の清廉、『淮陰侯列伝(韓信伝)』の栄達と失脚――これらは史実であると同時に、文学としての完成度も高い場面です。

価値観の多元性も重要です。司馬遷は儒家の枠を超え、法家の現実主義、道家の自然観、兵家の戦略思考、そして商人や遊侠の実利と義理にも耳を傾けました。彼自身、刑罰を受けた体験から、名誉や礼の外側に溢れ落ちる人間の痛みを知り、その視線は温かくも辛辣です。政治的正統に従属しない広い人間観が、後世の史書には見られにくい自由さを生んでいます。

また、空間認識と地理感覚にも優れます。諸侯の版図や辺境の風土、交通や治水の重要性が叙述の背景として繰り返し現れ、歴史が地理的条件と密接に関係することを示唆します。制度史(「書」)と人物史(「列伝」)が互いに補い合うことで、国家運営と人間行動の相互作用が可視化されるのです。

伝来・注釈と後世への影響――東アジア史学の出発点

『史記』は早くから学習・筆記の基本文献となり、書写と読解の過程で様々な校勘・注釈が付されました。とりわけ、南朝の裴駰(『史記集解』)、唐代の司馬貞(『史記索隱』)、張守節(『史記正義』)による三家注は、本文の異同や固有名の解釈、年代比定に大きく貢献し、以後の読解の枠組みを整えました。伝本は時代ごとに差がありつつも、校勘の蓄積により信頼性が高められ、現代の研究では出土文献や地域資料との照合を通じて再検証が進んでいます。

後世史書への影響は決定的です。班固の『漢書』は『史記』を継ぐ形で前漢の全期を扱い、以後の正史は紀伝体を標準形式としました。王朝交替ごとに編まれた「二十四史」の系譜は、『史記』が示した設計図を踏襲しながら、各時代の価値観を反映して展開していきます。紀伝体の枠組みは、政治権力の正統化と歴史の体系化に適しており、東アジアの官修史の基本文法となりました。

文学や思想への波及も広範です。『史記』の物語性は、漢以降の筆記・伝奇、明清小説、さらに日本や朝鮮の軍記物や講談にも影響を与えました。日本では古くから『史記』と『漢書』の講読が盛んで、武将や策士の逸話は教養の一部として定着しました。儒学教育の場でも、人物の栄辱や進退を通じて道徳と現実の折り合いを学ぶ素材として重んじられました。

評価の現代的意義としては、一次資料の蒐集・比較、現地踏査と伝承の照合、そして叙述者の立場の明示という点で、歴史叙述の方法に先駆的な工夫が認められます。一方で、神話的伝承や讖緯説への言及、王朝中心の視角など、批判的検討を要する部分も多く、考古学や文献学の進展により、各篇の史実性が不断に見直されています。こうした往還こそが古典の生命力であり、『史記』は今も新たな読みを引き出し続けています。

総じて、『史記』は政治・社会・文化を横断して歴史を語る試みであり、王朝興亡の記録にとどまらない「人間の書」です。勝者と敗者、中心と周縁、理念と利害が錯綜する場所にこそ歴史が立ち現れるという感覚は、東アジアの知的伝統に深く刻み込まれ、現在の歴史学・文学研究にも通底しています。読み継がれてきた理由は、そこに時代を超える人間観と、資料と物語を架橋する叙述技法が結晶しているからにほかなりません。