「イタリア戦争」とは、1494年から1559年まで断続的に続いた一連の大規模戦争を指し、フランス王国とハプスブルク家(スペイン王国・神聖ローマ帝国)を中心に、教皇領、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ナポリ、サヴォイア、公国群などイタリア諸勢力が複雑に巻き込まれた争いです。引き金はフランス王のイタリア王位継承請求でしたが、実際にはアルプスと地中海を結ぶ交易・金融の要衝であるイタリアをめぐる覇権争いでした。最新式の火砲と歩兵戦術が大きな威力を示し、傭兵・財政・要塞の革新が連鎖したため、近世ヨーロッパの戦争のあり方に決定的な影響を及ぼした出来事でもあります。最終的に1559年のカトー=カンブレジ条約で終結し、ミラノとナポリを軸にスペイン・ハプスブルクの優位が確立しました。
発端はフランス王シャルル8世のナポリ王位請求にあり、北イタリアのミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの招きもあってフランス軍がアルプスを越えたことでした。フランスは最新の攻城砲を伴い、街道と峠を一気に突破して南下しました。これに対抗して諸勢力が同盟を組み替え、教皇やヴェネツィア、スペインなどが連合して応じました。戦局はミラノ、ローマ、ナポリ、ピエモンテ、ロンバルディアの各戦域を転々とし、和約と休戦が結ばれては破られる展開が続きました。戦争の途中にはローマ劫略(1527年)のように象徴的な破壊も生じ、芸術や金融のネットワークにまで波及が及びました。イタリア諸都市はときに外征軍を雇い、ときに外勢の圧力に屈しながら、生き残りを図りました。
以下では、発端から前半の推移、ハプスブルク対ヴァロワの激突、終盤の決着という三つの時間帯に分け、さらに戦争がもたらした軍事・社会の変化に目を配りながら、全体像を分かりやすく整理します。固有名や年号は多いですが、主要な節目を押さえることで流れが読み解きやすくなるはずです。
発端と舞台設定:フランスの南下と同盟の綾
1494年、フランス王シャルル8世は、アンジュー家の継承権を根拠にナポリ王位を請求し、アルプスを越えてイタリアへ侵入しました。背景には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァが、対内外の均衡を保つためにフランスの力を梃子にしようとした事情がありました。フランス軍は機動力のある野戦砲と攻城砲を備え、街道の橋梁や峠を次々と突破してローマ経由でナポリを占領しました。これに驚いたイタリア諸勢力とスペイン、教皇、神聖ローマ皇帝はヴェネツィアを中心に同盟(いわゆるヴェネツィア同盟・神聖同盟)を組み、フランスの撤退を促す体制を整えました。
1495年のフォルノーヴォの戦いでは、帰路を阻まれたシャルル8世が辛くも突破に成功し、フランス軍は本国へ戻りました。しかしイタリアでの利権と軍事拠点は空白にはならず、残置部隊や傭兵、友好都市を巡って外交と戦闘が再燃しました。ミラノではスフォルツァ家の権力が攻防の中心となり、南部のナポリではアラゴン系ナポリ王家とスペイン王権の関与が強まりました。こうして「一度の遠征」では済まない、連続戦争の扉が開かれました。
シャルル8世の後継ルイ12世は、母系のビスコンティ家に連なる権利を主張してミラノ公国にも請求を拡大し、1499年にミラノを制圧しました。さらにナポリでもスペインと共同占領から分割を試みましたが、利害対立から戦闘となり、1503年にはスペインの名将ゴンサロ・デ・コルドバがチェリニョーラとガリリアーノで決定的勝利を収めました。ここで火縄銃歩兵と長槍歩兵を混成したスペインの野戦術が有効性を示し、南イタリアはスペインの影響下に固定されていきます。
この初期段階で見えてくるのは、イタリアの政治地図が「固定的な国境の争い」ではなく、傭兵契約と都市の同盟関係、王朝の婚姻と継承請求が絡み合う流動的秩序だったことです。教皇は霊的権威と外交の結節点として巧みに動き、ヴェネツィアはアドリア海とポー平原の利権確保を優先し、フィレンツェは共和主義とメディチ家の復権の間で揺れました。フランスとスペイン、皇帝はそれぞれ代理勢力を通じて影響力を浸透させ、イタリアは大国政治の「舞台」となりました。
前半の戦局(〜1516年):聖同盟の攻防とフランスの反発
教皇ユリウス2世は、教皇領の回復とフランス勢力の抑制を掲げて積極外交を展開しました。1508年にはカンブレー同盟を結成してヴェネツィアを牽制し、のちに同盟の矛先をフランスへ転じて「神聖同盟」を組織しました。1511年以降の戦闘では、1512年のラヴェンナでフランス軍が戦術的勝利を得たものの、若き将軍ガストン・ド・フォワが戦死し、戦略主導権は揺らぎます。同年、スイス歩兵の支援を受けた同盟軍がミラノを奪還し、メディチ家がフィレンツェで復位するなど、政治地図は短期間で大きく塗り替えられました。
しかし1515年、即位したばかりのフランソワ1世がアルプス越えの大胆な機動でミラノ再征服を狙い、マリニャーノの戦いでスイス歩兵を破りました。重砲の近接支援と騎兵・歩兵の連携が功を奏し、フランスはロンバルディアで再び優位に立ちました。1516年には一連の講和が結ばれ、フランスはミラノ支配を承認され、スペインとの間ではナポリ問題で相互の利害を一時的に調整しました。こうして前半戦は、フランスの野望が完全には挫折せず、次の大きな対立の余地を残して終わります。
この時期の特徴として、戦術と編成の革新が加速したことが挙げられます。スイスの密集長槍隊、ドイツのランツクネヒト、スペインの火縄銃歩兵の配合、攻城砲の機動力向上は、コンドッティエーレ中心の中世的戦い方に終止符を打ちました。野戦での決着だけでなく、要塞都市をめぐる包囲と補給線の争奪が重要性を増し、各国は軍資金調達と徴税の制度化を急ぎました。イタリアの都市は、防御のために稜堡式要塞(トレース・イタリエンヌ)を整備し、戦場は城壁の形状と射程の数学にまで広がりました。
帝国対フランスの激突(1521〜1530年):パヴィア、ローマ劫略、カンブレー
カール5世がスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねると、資源と領域の規模でフランスを大きく上回る体制が生まれました。1521年に戦端が再び開かれると、1522年のビコッカでフランス・ヴェネツィア連合軍が撃退され、ミラノの掌握は動揺します。転機は1525年のパヴィアの戦いで、フランス軍が壊滅し、国王フランソワ1世自身が捕虜となりました。野戦での火器・長槍・騎兵の組み合わせを洗練させた帝国・スペイン側の戦術が優位を示し、フランスは一時的に大きく後退しました。
フランソワ1世はマドリード条約で苛酷な条件を受け入れつつ、釈放後に約定の見直しを志向し、教皇クレメンス7世、ヴェネツィア、フィレンツェなどとコニャック同盟を結成しました。帝国側はこれに対抗して傭兵を動員しますが、資金不足と統制の緩みが重なり、1527年には帝国軍の行軍がローマへ向かい、暴走的な略奪に発展しました。いわゆるローマ劫略は、教皇領の政治・文化に深い傷を残し、都市の人口と藝術環境に甚大な影響を与えました。これにより教皇は屈服を余儀なくされ、イタリアにおける帝国の威信は一時的に高まりました。
しかし、長期戦は双方に疲弊をもたらしました。1529年のカンブレーの和約(いわゆる「女たちの和約」)でフランスとハプスブルクがいったん講和に達し、カール5世は1530年にボローニャで教皇から戴冠を受けました。フィレンツェではメディチ支配が確立し、トスカナの政治構造は長期的な変化に向かいます。とはいえ、ミラノ公国の継承やサヴォイア、ピエモンテの帰属など未解決の火種は多く、のちの再開戦の原因が温存されました。
この段階で重要なのは、フランスがオスマン帝国と戦術的協調を模索し、地中海の海軍力と結びつけてハプスブルク包囲を狙い始めたことです。トゥーロンの一時的貸与やバルバロッサ提督との連携は、戦争がアルプスとポー平原の外へ拡大していることを示しました。戦場は陸の要塞線と海の制海権の二正面で連動し、イタリアの港湾都市は戦略価値をさらに高めます。
終盤と決着(1536〜1559年):サヴォイア、ピエモンテ、そしてカトー=カンブレジ
1535年にミラノ公フランチェスコ・スフォルツァが没すると、継承をめぐる対立が再燃し、1536年から戦争は新段階に入ります。フランスはピエモンテへ進出し、イタリア北西部は長期の攻防の舞台となりました。1544年のセレゾーレの戦いではフランスが戦術的勝利を収めましたが、戦略の決定打には至らず、同年のクレピー条約で一時的な収束を見ます。その後もトスカナではシエナをめぐる争奪が続き、最終的にスペインの支援を得たフィレンツェ(メディチ家)が1555年にシエナを屈服させ、トスカナの統合が進みました。
1551年以降、フランス王アンリ2世は再び開戦し、東方ではロレーヌ方面のメスを確保して防備を固めました。1557年のサン=カンタン、1558年のグラヴリーヌでスペイン側が勝利すると、フランスの攻勢は行き詰まり、両陣営は講和へ傾きます。1559年のカトー=カンブレジ条約は、フランスがイタリアにおける主要権利を放棄し、スペイン・ハプスブルクがミラノ公国とナポリ王国を軸に覇権を握る構図を確定しました。サヴォイア家は領地を回復し、ヴァロワ家の王女との政略婚が締結されるなど、婚姻と領土の取り引きが最終合意の中核を占めました。
講和後のイタリアでは、スペイン副王がナポリとミラノを統治し、ジェノヴァの金融やミラノの行政を通じてハプスブルク体制に組み込まれました。ヴェネツィアは独立を保ちつつも内陸拡張の潮が退き、教皇領は宗教改革と対抗宗教改革の課題に集中します。フィレンツェはトスカナ大公国としての整備が進み、サヴォイアはピエモンテで地域国家化への歩みを強めました。イタリアは「小国分立と外勢覇権」の均衡のもとで、長いスペイン優位の時代へ入っていきます。
終盤戦のもう一つの側面は、軍事技術と財政の成熟です。稜堡式要塞は幾何学的配置で相互火力支援を実現し、包囲戦は工兵・補給・測量が鍵となりました。スペインのテルシオ編成は、長槍と銃の混合で持久的な戦闘力を発揮し、フランスもこれに対抗して火器歩兵の比率を高めました。戦争の費用は天文学的に膨らみ、ジェノヴァやフッガー家などの銀行資本が国庫と戦線を結ぶ生命線となりました。国家は徴税と公債の制度を整え、常備軍と官僚制を強化し、戦争は国家形成の推進力として機能しました。
長期にわたる戦乱は、芸術と学術の環境にも影響しました。ローマ劫略は人材の流出を招き、芸術家や学者が各地の宮廷を転々としました。フィレンツェ、フェラーラ、マントヴァ、ウルビーノなどの宮廷は、戦費と文化の両立に苦心しながらもパトロネージを続け、マニエリスムの様式が広がりました。都市社会は税負担と兵站供出に追われ、農村には徴発と兵の移動が絶え間なく押し寄せました。戦時の危機管理としての衛生・食糧・価格統制の仕組みは、平時の行政にも持ち込まれ、近世的統治の基層を形づくりました。

