イラン・イラク戦争は、1980年9月にイラクがイランへ侵攻して始まり、1988年8月に国連安保理決議598による停戦受け入れで戦闘が終息した、約8年に及ぶ長期戦争です。発端には、シャットゥル=アラブ(アル=アラブ川)の航行権や国境線をめぐる対立、1979年のイラン革命で生じた政変とその周辺への波及不安、アラブ・ペルシア・シーア派・スンナ派といったアイデンティティの交錯、地域覇権をめぐる思惑が重なっていました。戦争は当初イラクの電撃侵攻で始まりますが、イランが粘り強く反攻し、前線は膠着と局地的突破を繰り返しました。都市と油田地帯、湿地と河川、砂漠と海上が戦場となり、化学兵器の大規模使用、弾道ミサイルによる都市相互攻撃(「都市の戦争」)、ペルシア湾でのタンカー攻撃と機雷戦(「タンカー戦争」)など、20世紀末の戦争の縮図のような様相を帯びました。犠牲は軍民合わせて数十万人にのぼり、負傷・難民・経済損失は計り知れない規模に達しました。終結時に領土の大幅な変更はなく、「勝者なき戦争」と総括されますが、両国と地域秩序、国際法の議論、軍事技術と安全保障の考え方に深い痕跡を残しました。
背景と開戦――1975年アルジェ合意から1980年侵攻へ
戦前の両国関係は、河川の航行と国境線の画定をめぐって長年の緊張が続いていました。1975年のアルジェ合意は、アル=アラブ川の中間線主義の採用や越境反政府勢力(とくにクルド勢力)への支援停止などで折り合いを付け、表面的には安定を取り戻したかに見えました。しかし、翌1979年にイランで王政が崩壊しイスラーム共和国が成立すると、革命の理念が周辺へ拡散することへの警戒、イラン国内の混乱、国軍再編の過程での脆弱性などが、近隣に大きな衝撃を与えました。イラク側では、地域における主導権の確立、油価と財政の思惑、国境の再交渉を目指す機運が高まり、緊張は増幅します。
1980年春以降、国境地帯では砲撃や越境小競り合いが頻発し、9月22日、イラクは航空攻撃でイランの空軍基地や油田関連施設を狙うとともに、地上軍を複数正面で進入させました。初期の主目標は、フーゼスターン(アラブ語名フワイザ)の油田地帯と港湾バンダル・シャープール(現バンダル・ホメイニー)、そしてアバーダーン・ホッラムシャフルの要衝を押さえることでした。電撃戦は一部で成功し、ホッラムシャフルは激戦の末に占領され、アバーダーンは包囲されますが、イラン側の抵抗と国内動員は速やかに進み、侵攻は深い戦略的崩壊には至りませんでした。
イラン国内では、革命直後に形成された革命防衛隊(IRGC)と志願動員(バスィージ)が、再編中の正規軍を補完する形で前線に投入されました。宗教的・愛国的動員は短期間に大規模な兵員を前線へ送り込み、都市や聖地では負傷者支援・物資動員・祈りが重なり合う「戦時社会」のリズムが形づくられました。他方、指揮統制や兵站の未整備、重火器と航空戦力の不足は、後の戦局でも悩ましい制約として残ります。
戦局の推移と戦場の特徴――湿地・河川・都市の攻防、化学兵器と「都市の戦争」
1981年後半から1982年にかけて、イランは反攻作戦を連続的に実施し、ホッラムシャフルの奪還(1982年5月)は象徴的な転機となりました。前線は国境付近に押し戻され、以後はイランが国境越えの攻勢を試みる局面が増えます。戦場の地理は、チグリス・ユーフラテス流域の湿地・河川と堤防、椰子園と運河、砂漠と塩湿地が入り組む難地形でした。舟艇・浮橋・工兵が要で、渡河点の確保と補給路の維持が作戦成否を左右しました。イランは人的動員の量で突破口をこじ開け、局地的にイラク陣地の間隙を衝きましたが、対するイラクは砲兵・戦車・航空・ヘリ攻撃を重ね、塹壕と地雷・鉄条網・堤防の多層防御で消耗を強いました。
1986年、イランはファウ半島(シャットゥル=アラブ河口の要衝)を奇襲奪取し、湾岸の戦略に大きな圧力をかけました。これは、湿地戦に習熟した部隊と渡河能力が成果を上げた事例でしたが、1988年春にはイラクの大規模反攻で半島は奪回されます。1987〜88年のイラク軍は、装備の立て直しと空軍の活用、後背の治安確保、指揮系統の整流化で攻勢能力を回復し、国境線に沿って要地を連続的に取り戻していきました。
この戦争を象徴する残酷な要素が、化学兵器の使用でした。とりわけイラク側は前線でマスタード剤や神経剤を組み合わせた大規模な化学攻撃を繰り返し、イラン兵士と住民に甚大な被害を与えました。1988年のハラブジャでは、クルド地域の都市に対して化学兵器が用いられ、多数の住民が犠牲になりました。国際法の禁忌を破るこの手段は、兵士・民間人の身体と地域社会に長期の傷痕を残し、戦争犯罪と責任追及の議論を現在に至るまで続かせています。
空からの脅威は前線に限られませんでした。1984年頃から本格化した「都市の戦争」では、両国が弾道ミサイル(イラクのスカッド改良型など)や航空攻撃で相手の大都市(テヘラン、イスファハーン、バグダード、バスラ等)を相互に攻撃し、民間人の恐怖と混乱を拡大させました。防空・警報・避難の体制が整っていない地域も多く、学校や市場、住宅地が被害を受け、戦場と銃後の境目が曖昧になっていきます。心理戦と士気低下を狙うこの形態は、近代都市がいかに脆弱であるかを突きつけました。
国際化する戦争――タンカー戦争、機雷と護送、外部関与と海空の出来事
1984年以降、ペルシア湾での「タンカー戦争」が激化し、戦争は地域と世界の海上交通に直結する問題へと国際化しました。両国は相手と結びつきが強い湾岸諸国のタンカーや油送施設を標的にし、対艦ミサイルや爆撃、機雷敷設でエネルギー輸送に圧力を加えました。イラクは対艦ミサイルを搭載した航空機で湾岸一帯の船舶を攻撃し、イランは機雷や小型艇でのハラスメントで応じました。航路の安全を確保するため、域外大国は艦隊を展開し、護衛・掃海・監視活動を広げます。
1987年には、湾岸の一部タンカーを第三国籍に「付け替えて」護衛する措置が取られ、護送船団が一般化しました。掃海艇やヘリ、哨戒機が出入りするなか、1988年には機雷等での損害に対する大規模報復作戦が行われ、海上での撃ち合い・拿捕・攻撃が発生しました。緊張の高まりの中で、1987年には湾上での誤射事件(軍艦へのミサイル命中による大きな犠牲)が生じ、1988年には旅客機が誤って撃墜される惨事が起き、非戦闘員の安全と交戦規定、識別の難しさが国際的な議論を呼びました。海上保険の急騰や航路の変更は、世界経済にも波紋を広げます。
陸の戦場でも、外部からの支援と関与が戦局を左右しました。両陣営には装備や資金、情報の支援が流れ込み、国際政治の力学は「地域戦争」を包み込む大きな枠となりました。とくにイラク側には複数の湾岸諸国からの資金援助が集まり、戦後の債務問題の伏線となります。イラン側は国際的孤立の中で国産兵器の開発・改修に拍車をかけ、ミサイル・無人機・工兵能力などの自主化を進めました。これらの技術と経験は、後の地域安全保障の計算に組み込まれていきます。
停戦と影響――決議598、人口と経済、記憶と制度の長い影
1987年、国連安保理決議598が採択され、即時停戦、捕虜交換、戦後責任の査定、国境問題の調停などを柱に和平の枠組みが示されました。戦局が再び動いた1988年春夏、イラクが前線各地で反攻を進める一方、海上での衝突と誤射の惨事が重なり、双方とも継戦のコストは限界に近づきます。最終的にイランは同年夏に決議の受け入れを表明し、8月20日に停戦が実施されました。停戦線はほぼ国境線付近に収まり、領土の大幅な変更は生じませんでした。その後、捕虜の交換や国境管理の再開、復興のための協議が進み、さらに後年には国境線に関する合意の確認へとつながっていきます。
人的被害は甚大でした。死者・負傷者・行方不明者は軍民合わせて数十万人単位に達し、農村から都市まで幅広い層が喪失と障害に直面しました。化学兵器被害者の長期的治療、義肢・義手・視力の回復、精神的外傷のケアは、戦後社会の大きな課題となります。避難と移住は地域の人口構成を変え、インフラの破壊は水・電力・道路・学校・病院の再建を長く遅らせました。経済的には、油田・精製・港湾設備の被害、輸送の中断、軍事支出の増大で、財政は深刻な負担を背負い、債務とインフレ、通貨の不安が長期化しました。
政治と制度の面では、イランは戦時動員の経験を通じて革命防衛隊と民兵の役割が拡大し、殉教・犠牲の記憶が公共空間に刻み込まれました。国産兵器と科学技術、人材育成の必要性は国家政策として定着し、医療・工学・教育の分野で長期の投資が進みます。イラクでは、戦費調達のための対外債務が蓄積し、戦後の財政・外交の選択に重くのしかかりました。国内統治は安全保障最優先の体制へ傾斜し、周辺との関係は新たな緊張を孕むことになります。
記憶の領域では、双方の社会が喪失と勇気の物語を公的儀礼・文学・映画・記念館で語り継ぎ、墓地や殉教者の写真が都市景観の一部となりました。他方で、化学兵器使用や都市攻撃、捕虜・民間人への扱いなど、法と倫理の問題は国際社会の検証対象となり、責任の所在と再発防止が議論され続けています。戦争の教訓として、(1)短期の電撃戦が長期の消耗戦に転じるリスク、(2)兵站・工兵・補給・医療・民生保護の比重、(3)海上交通とエネルギー安全保障のぜい弱性、(4)化学兵器・弾道ミサイル・機雷といった非対称手段の破壊力、がしばしば挙げられます。これらは、その後の地域危機への各国の対応を形づくる参照枠となりました。
総じて、イラン・イラク戦争は、国家の存立と地域秩序、国際海運・エネルギー、国際法の原則、軍と社会の関係など、多くの切実なテーマを一つの戦争に凝縮した出来事でした。地理・資源・宗派・アイデンティティ・技術・国際政治が複雑に絡み合う状況で、戦争を終わらせる条件の難しさと、終わった後に社会を立て直す重みを教えてくれます。歴史として振り返るとき、私たちは数値や作戦の列挙にとどまらず、人間の生活と制度の両面を見渡す視野を保つことが大切です。

