後漢 – 世界史用語集

後漢(こうかん、25〜220年)は、中国史で「東漢(とうかん)」とも呼ばれ、西漢滅亡後に劉秀(光武帝)が洛陽を都として再建した漢王朝です。武帝期の膨張と王莽政権の混乱で疲弊した国家を立て直し、「光武中興」と称される安定を一時は回復しました。明帝・章帝にかけての統治は比較的平穏で、郡県制の整備、太学の拡充、貨幣秩序の再建、農村復興などが進みます。他方、2世紀に入ると外戚と宦官の権力争い、豪族の台頭、土地兼併の進行、黄河治水の失敗などが絡み合い、政治は次第に硬直しました。184年の黄巾の乱を契機に地方の軍事勢力が自立し、董卓の擁立した献帝のもとで曹操ら群雄が割拠、やがて魏・蜀・呉の三国時代へと移行します。後漢を理解する要は、再建国家が官僚制・思想・地方社会をどのように整え、そして豪族・軍事・財政の負荷に耐えられなくなっていく過程を押さえることにあります。

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成立と体制──光武中興から明章の治へ

劉秀(光武帝、在位25〜57年)は、王莽の新(8〜23年)崩壊後の混乱を収め、25年に自ら即位して漢号を復活しました。都は関中の長安ではなく交通の要である洛陽に置かれ、軍事と財政を引き締める現実的な選択がなされます。光武帝は恩赦と減税、屯田の再整備、地方官の刷新で秩序を回復し、中央では尚書台の権限を強めて機動的な政務運営を可能にしました。列侯や宗室の過度な分封を避け、州・郡・県の三層構造を引き締めたことも、反乱抑止に効果をもちました。

光武帝の路線は、息子の明帝(在位57〜75年)・孫の章帝(在位75〜88年)に継承され、「明章の治」と称される比較的安定した時期を生みます。太学(中央の高等教育機関)は拡充され、儒学の経典学が官学の骨格になります。銭貨制度は安定化に向かい、徴発の節度や軽徭薄賦の原則が掲げられました。班超の西域経略など対外政策でも一定の主導権が回復し、都城整備や道路・駅伝網の運用も整います。もっとも、この安定は「節度を守る再建」の上に立つもので、武帝期のような攻勢的膨張とは質が異なりました。

2世紀以降、幼帝が続いたことで後宮(外戚)と宦官の影響力が増大します。和帝・安帝・順帝・桓帝・霊帝の治世には、皇后の実家一族(梁氏・竇氏など)と宦官集団が交互に実権を握り、官僚任用や財政に歪みが生じました。士大夫層の一部はこれに抗し、儒学的清議を掲げた「党人」として連帯しますが、宦官勢力は彼らを弾圧し、やがて「党錮の禁(166・169年)」という大規模な官界粛清へと発展しました。この事件は、後漢政治の求心力を根底から損ないます。

社会経済と地方社会──豪族の伸張・土地と税・黄河のリスク

後漢の経済は、戦乱で荒れた農地の復旧から始まりました。初期には賦税と徭役の軽減が奏功し、農業生産は回復します。戸籍・田地台帳の整理で課税基盤を確保し、地方の倉儲(常平・義倉的な機能をもつ備蓄)も整えられました。しかし、中期以降は土地兼併が進み、豪族(在地の有力家)が大土地所有と宗族ネットワークを武器に、村落の支配力を強めます。彼らは租佃・貸付・保護関係を通じて小農を囲い込み、時に官人任用や治安維持でも行政を代替しました。結果として、国家の直接支配は厚みを失い、税収は伸び悩み、辺境防衛や治水の費用が重荷となっていきます。

貨幣・流通面では、銅銭経済が広がる一方、物資の偏在と運輸の脆弱さが価格の乱高下を招きました。黄河は相変わらず国家最大のリスクで、とくに下流の流路変動と堤防決壊は、河北・河南の農村に壊滅的被害を与えます。治水には膨大な人夫と資材が必要ですが、地方豪族の協力なしには実行が難しく、その豪族が自らの勢力圏を優先すれば、国家の統合的な治水計画はしばしば後手に回りました。霊帝期には官職売買や雑税の増徴が横行し、財政の窮迫を補うための即席策が社会の不満を蓄積させます。

都市と市場の側面では、洛陽や長安(旧都)に加え、鄴・許昌・譙といった軍事・物流拠点が勃興します。塩・鉄・酒などの専売は西漢以来の経験があり、後漢初期には緩和されましたが、末期の財政難で再規制が強まる傾向が見られました。地方の市では行(同業組織)的な連帯が生まれ、絹布・鉄器・陶器などの地域特産が流通を活性化します。もっとも、国家の価格統制や輸送路の治安悪化は、経済の安定を阻む要因として残りました。

学術・文化・宗教──訓詁学の成熟、紙の普及、仏教の受容

後漢は、儒学の学術が体系化される時期です。経書解釈では「今文学」と「古文学」の論争が続き、許慎『説文解字』の編纂によって漢字学が整備され、鄭玄らは礼・経の注釈を高水準に引き上げました。太学の学生(太学生)は政治意識を持つ集団へと成長し、党人の母体ともなります。歴史学では、班固の『漢書』を妹の班昭が補い、伝記の整序や志の体裁が整いました。地方の郡国志や人物評(許劭らの月旦評)に見られる人物観は、後世の士大夫文化の萌芽です。

技術・科学では、蔡倫による製紙法の改良(2世紀初)が画期的でした。紙の普及は書籍生産と行政文書のコストを下げ、学術の拡散と官僚制の実務能力を底上げします。張衡は地震計(地動儀)・渾天儀・天文測定で名高く、機械と観測の組み合わせによる自然把握を試みました。医学では張仲景『傷寒雑病論』が臨床志向の伝統を確立し、薬物学・方技は民間療法と官の医療制度をつなぎます。文芸では、賦・哀歌・銘文が盛行し、都邑と田園の情景、政治批判と隠逸の情が交錯しました。

宗教面では、民間信仰と儒教祭礼に加え、道教の前身となる「五斗米道(天師道)」などの新興宗教が台頭します。彼らは医療・祈祷・共同体組織化を通じて社会的役割を果たし、地方統治の隙間を埋めました。仏教は明帝期の白馬寺伝来説に象徴されるように、1世紀後半から徐々に受容され、貴族・知識人の間で経典の翻訳と議論が始まります。当初は道教的要素と混交しながらも、輪廻・因果・慈悲といった思想が、戦乱と貧困に揺れる社会に新しい救済観を提供しました。

対外関係・軍事と崩壊への道──黄巾の乱から群雄割拠へ

対外では、北方の匈奴情勢が大きく動きます。南匈奴の内属化が進む一方、羌・鮮卑の活動が活発化し、辺境の防衛は絶えず課題でした。西域では班超がオアシス都市群を再統合し、甘英を大秦(ローマ帝国)方面へ派遣するほどの勢いを一時取り戻しますが、継続的支配には至らず、班超の退任後は徐々に影響力が薄れます。南方では交州(ベトナム北部)・益州(四川)などで土着勢力との緊張が続き、交通と徴税の管理が求められました。軍制面では府兵的な徴発と募兵が併用され、地方官の軍事権限が拡大するに従って、中央の統御は難しくなっていきます。

決定的な転機は184年の黄巾の乱です。張角率いる太平道の信徒が各地で蜂起し、社会の不満と宗教的熱狂が結びついた広域反乱となりました。朝廷は各地の有力者に鎮圧を委ね、その過程で曹操・袁紹・劉表・孫堅らが独自の兵権と財政基盤を獲得します。宦官十常侍の専横、霊帝の財政対策(官職売買など)への反発、党錮の禁で排斥された士大夫の怨恨など、政治的亀裂は修復不能な段階に達していました。

189年、霊帝の死後、外戚の何進が宦官討伐を図るも逆に殺害され、董卓が洛陽に進駐して献帝を擁立、都を長安に遷都します。董卓の暴政は関東諸将の連合反董卓軍を招き、董卓暗殺後も権力の空白は埋まらず、分裂はさらに深まります。曹操は献帝を許へ迎えて政権の名分を握り、袁紹を官渡で破って北方を制圧、孫権は江東を固め、劉備は荊州から益州へ進出しました。こうして後漢は名目上存続しつつも、実権は群雄へ分解し、中央の租税・兵役は各地の軍閥に吸い上げられる構造へと変わります。

220年、曹操の子・曹丕が献帝から禅譲を受けて魏を建てると、形式上も後漢は滅びます。蜀・呉もそれぞれ帝号を称し、中国は三国鼎立の時代に入ります。後漢の終末は、外戚・宦官・豪族の相克、財政の窮迫、黄河治水の失敗、宗教的社会運動、地方軍事力の自立といった多要因が累積した、いわば制度疲労の総決算でした。にもかかわらず、後漢が育てた学術・官僚制・文物・技術の多くは、魏晋南北朝を経て隋唐にまで受け継がれていきます。