「首里(しゅり)」とは、かつて琉球王国の都が置かれていた城下町で、現在の沖縄県那覇市に含まれる地域を指す名称です。世界史や日本史では、とくに首里城を中心とした政治・宗教・文化の中枢として登場し、琉球王国の王が居住し、外交や祭祀が行われた場所として重要な意味を持ちます。琉球王国がおこなっていた中国や東南アジア、日本との中継貿易の背後には、この首里で決定された政策や儀礼の体系がありました。
首里は、現在の感覚でいえば「首都」と「城下町」が重なり合ったような空間でした。標高の高い丘陵部に首里城が築かれ、その周囲に王族・士族(サムレー)階層の住宅や寺院、学問所などが集まり、一方で経済活動の中心である港町・那覇と密接に結びついていました。王国の政治・宗教儀礼・王府官僚の暮らしは首里に集中し、貿易や流通の実務は那覇で展開されるという、機能分担がなされていたのです。
この解説では、まず琉球王国の成立とともに首里がどのように都として形づくられていったのか、その歴史的背景を見ていきます。つぎに、首里城と城下町の構造、政治と宗教がどのように結びついていたのかを整理します。さらに、中国や日本、東南アジアとの対外関係の中で、首里が果たした役割を確認し、最後に近代以降、王国の廃止や戦争、復興を経て「首里」という場所がどのように変化してきたのかをたどります。概要だけでも「首里=琉球王国の都」というイメージがもてるようにしつつ、詳しく知りたい人は各見出しを読むことで、首里の具体的な姿を立体的に理解できる構成にします。
琉球王国の成立と首里の都としての形成
首里が歴史の表舞台に登場するのは、いわゆる「三山時代」の終わり頃からです。中世の沖縄本島は、北山・中山・南山という三つの勢力に分かれており、それぞれが城(グスク)を拠点に勢力争いをしていました。このうち中部の中山を拠点に勢力を伸ばした尚巴志(しょうはし)は、15世紀初めに北山・南山を相次いで制圧し、琉球王国を統一します。このとき新王朝の拠点として整備されたのが、首里の地でした。
首里は、沖縄本島中南部の小高い丘陵地に位置し、外洋に面した港町・那覇を見下ろすような場所にあります。この地形は、防御と統治の両面で有利でした。敵が攻め寄せても見晴らしの良い高地から防戦しやすく、同時に、那覇港を通じて入ってくる物資や情報をコントロールしやすい位置にあったからです。尚巴志は、それ以前から存在したと考えられる城郭を拡張・改修し、王宮や儀礼空間を整え、首里を王国の都として本格的に整備しました。
以後、首里は約450年にわたって琉球王国の政治的中心でありつづけます。尚氏の王統には第一尚氏と第二尚氏がありますが、いずれの時期においても王は首里城に居住し、王府の官僚たちも首里に集められました。中国(明・清)への朝貢使節や、日本・朝鮮・東南アジアとの外交交渉も、基本的には首里城内で決められた方針にもとづいて行われます。
首里城は、時代ごとに増改築を繰り返しながら発展しました。石灰岩質の丘陵を利用して曲線的な城壁が築かれ、その内部に正殿・北殿・南殿といった建物や、多数の門・広場・儀礼空間が配置されました。中国風の彩色や建築様式と、日本の城郭文化、そして琉球固有の装飾が混ざり合った独特の景観は、周辺のアジア世界においても個性的な都の姿として認識されていました。
また、首里は単なる王の居城にとどまらず、その周囲に形成された城下町全体が「都」として機能しました。王族や上級士族の屋敷が城の近くに並び、その外側に中・下級士族の居住区が広がり、寺院や学問所、王府の諸役所もこの範囲に集中していました。士族たちは首里と那覇を行き来しながら行政や貿易、外交実務を担い、首里は「知的・政治的中心地」としての性格を強くもっていたのです。
首里城と城下町:政治と宗教の中心
首里城は、琉球王国の政治・儀礼・象徴が集約された空間でした。城の中心にある正殿は、王が公式の儀式や即位式、朝賀を行う場所であり、赤い瓦屋根と鮮やかな朱塗りの外観、龍の装飾など、王権の威厳を示す意匠に満ちていました。正殿前の大広場では、冊封使(さくほうし)として来訪した中国の使節団を迎える儀礼や、新年の行事などが盛大に執り行われました。
首里城内部には、王が私的な生活を送る居室や、王族女性たちの居住区、政務を行う会議室なども配置されていました。行政組織としては、三司官(さんしかん)と呼ばれる最高行政官を頂点とする官僚機構が整えられ、彼らが実務面で王を補佐しました。税の徴収、地方統治、貿易管理、司法など、多岐にわたる仕事が首里城内外の役所で処理されていたのです。
宗教面でも、首里は重要な役割を担っていました。琉球王国には、ノロやユタといった女性中心の祭祀制度があり、王家と結びついた最高位の祭祀者として「聞得大君(きこえおおきみ)」が存在しました。聞得大君の就任儀礼や、国家的な祭祀の多くは首里とその周辺の聖地で行われ、王権と宗教的権威が密接に結びついていました。
首里周辺には、斎場(せいじょう)や御嶽(うたき)と呼ばれる聖なる場所が点在し、そこでは王国の平安や豊穣を祈る祭礼が繰り返されました。また、仏教寺院や儒教的な祭祀を行う場も設けられ、中国や日本から伝わった思想・宗教と、在来の信仰が複雑に交差していました。首里は、こうした多層的な宗教文化が重なり合う「信仰の都」でもあったのです。
首里城下町には、王族・士族の屋敷や、学問所・寺院が集まり、独特の文化的雰囲気を生み出していました。士族の子弟は、首里の学校で漢文や礼法、琉球独自の法律などを学び、官僚や外交官としての教養を身につけました。首里方言や芸能文化も発達し、音楽・舞踊・詩歌などが宮廷文化として洗練されていきます。
経済面では、首里は直接の交易港ではないものの、那覇と一体となって機能していました。那覇で行われる中国船・日本船・東南アジア船との取引の方針や、関税、貢納品の内容などは、首里で決定されます。首里の官僚たちは、交易収益を王国財政にどう組み込むか、地方への再分配をどう行うかを調整し、その結果として王国全体の政治・経済が運営されていました。
首里と対外関係:朝貢貿易と両属体制の中枢
琉球王国は、東アジア・東南アジアの海域世界における中継貿易国家として栄えましたが、その外交と貿易の中心的な意思決定の場が首里でした。とくに重要なのが、中国との朝貢関係です。琉球王国は明・清王朝に対して朝貢を行い、その見返りとして冊封を受け、国王としての正統性や貿易上の特権を得ていました。
冊封儀礼の際には、中国から派遣された冊封使節団が那覇に到着し、首里城に招かれて即位式や祝宴が行われました。このときの儀礼の進行や宮廷の装飾、音楽・舞踊などは、首里で厳密に準備され、中国的な形式と琉球独自の文化が組み合わされた華やかなものだったと伝えられています。こうした儀礼は、首里城を舞台にした「国際舞台」であり、琉球王国が東アジアの秩序の一部であることを示す場でした。
一方で、首里は日本との関係でも重要でした。1609年、薩摩藩(島津氏)が琉球に侵攻し、首里城も攻め落とされます。これ以後、琉球王国は形式上は独立王国の体裁を保ちながらも、実質的には薩摩藩の支配下に入る「両属体制」をとることになります。すなわち、中国に対しては従来どおり朝貢国としてふるまい、日本に対しては薩摩藩の支配を受けるという、二重の関係を維持することが求められました。
この微妙なバランスを保つための政治的調整は、首里で行われました。薩摩から派遣される在番役人との交渉、中国への朝貢使の派遣手続き、日本本土への使節や薩摩への年貢納入など、複雑な外交・財政実務を首里の王府官僚が担ったのです。首里は、両属体制の下で琉球王国の自律性をどこまで保てるかを模索する、政治的駆け引きの舞台でもありました。
また、首里は東南アジアや朝鮮との関係の窓口としても機能しました。王府は、那覇港を通じてやってくる海外からの船舶を管理し、乗組員を首里に招いて歓待したり、交易品や情報のやり取りを行ったりしました。首里で育った士族たちは、ときに海外に派遣され、各地の言語や儀礼に対応する柔軟な外交官として活躍しました。このように、首里は単に国内の都であるだけでなく、「海のシルクロード」の要衝として国際社会とつながるハブでもあったのです。
近代以降の首里:王国の終焉、戦争と復興
19世紀後半、日本の明治政府は中央集権的な近代国家をめざし、その過程で琉球王国の位置づけを大きく変えていきました。1872年には琉球藩が設置され、国王は藩王とされますが、最終的には1879年の「琉球処分」によって琉球藩は廃止され、沖縄県として日本の一県に編入されました。このとき、首里城は王宮としての役割を終え、王家も退去を余儀なくされます。
琉球処分後、首里の街は「旧王都」としての性格を残しつつも、日本の地方都市として再編されていきました。城は一時、軍施設や学校として転用され、城郭の一部が取り壊されたり、建物が改変されたりしました。近代化の中で、首里の士族階層は公制度の変化に適応しながら、教員や官吏として新しい社会での役割を探りましたが、従来の王府官僚制度は完全に解体されていきます。
第二次世界大戦期には、沖縄は日本とアメリカの本格的な地上戦の舞台となり、首里も例外ではありませんでした。1945年の沖縄戦では、首里一帯が激しい砲撃と戦闘にさらされ、首里城を含む多くの歴史的建造物や街並みが破壊されました。戦後、首里は焼け野原の中から都市として再出発することを余儀なくされ、多くの住民が生活再建に取り組みました。
戦後しばらくの間、首里城跡には琉球大学のキャンパスが置かれ、戦前とは姿を変えた利用がなされていました。しかし、琉球大学の移転後、首里城跡を歴史公園として整備し、かつての王宮建築を可能なかぎり復元しようとする運動が進みます。資料調査や発掘調査にもとづき、1980年代から1990年代にかけて正殿などの主要な建物が復元され、首里城は琉球王国時代の姿を現代に伝える象徴的な存在として甦りました。
復元された首里城は、琉球・沖縄の歴史と文化を学ぶ場として、多くの人びとに親しまれるようになりました。城内では、王国時代の儀礼の再現や伝統芸能の公演、歴史資料の展示などが行われ、首里の街並みも古い石畳や屋敷の門構えなどが保存・整備されました。首里は再び「歴史文化の中心地」として注目されるようになり、世界遺産の構成資産としても位置づけられました。
一方で、近年には火災によって正殿などが焼失するなど、新たな試練にも直面しています。それでも、再度の復元や保全に向けた取り組みが続けられており、首里という場所は、過去の王国の都としてだけでなく、現代の人びとが歴史と向き合い、次世代に文化を受け継ごうとする試みの舞台でもありつづけています。
「首里」という用語に出会ったときには、単に「首里城がある場所」と覚えるのではなく、琉球王国の政治・宗教・文化の中心として機能した都であり、中国や日本、東南アジアと海を通じてつながる中継貿易国家の頭脳であった場所、とイメージしておくと理解しやすくなります。そのうえで、近代以降の激しい変化や戦争の被害、復元と継承の努力にも思いを向けることで、首里という地名が持つ重層的な意味が見えてきます。

