サヌーシー教団 – 世界史用語集

サヌーシー教団(サヌーシー派/Sanūsiyya)は、19世紀前半に北アフリカ東部(キレナイカ=現リビア東部)で成立した改革派スーフィー教団です。創始者ムハンマド・イブン・アリー・アッ=サヌーシー(1787–1859)が唱えた「クルアーンとスンナへの回帰」「規律・労働・簡素・学問の重視」「過度な呪術や逸脱的慣行の否定」という理念のもと、オアシスのザーヴィヤ(ロッジ)を連ねるネットワークを築き、遊牧・農耕・キャラバン交易の社会を横断的に組織しました。教団は部族間の調停と教育・灌漑・農耕の指導を通じて地域秩序の核となり、フランス・イタリアなど欧州列強のサハラ進出に対する防衛の軸も担いました。第一次世界大戦期の「サヌーシー戦役」、イタリア植民地化への長期抵抗、そして指導者イドリースのもとで独立リビア王国へ至る政治過程は、宗教共同体が国家形成へと接続する稀有な例として知られます。現代でも、ウマル・ムフタールの記憶や王家(サヌーシー家)の象徴性を通じ、教団はリビア社会のアイデンティティの一部として語られ続けています。

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起源と教義:改革派スーフィズムの実践—「簡素・規律・学び」の共同体

サヌーシー教団の創始者ムハンマド・イブン・アリー・アッ=サヌーシーは、北アフリカとアラビアで学を修め、ハディース学・法学(主にマリキ法)に通じた学僧でした。彼は当時のスーフィー運動の一部に見られた過度の聖者崇敬や呪術的慣行を批判し、初期イスラームへの回帰、学問と修養、共同体の倫理を重んじる「復古的改革」を掲げました。教義は禁欲や苦行の強要ではなく、質素・自助・労働を通じて信仰を日常化することに力点がありました。タバコや酒の忌避、節度ある装い、虚飾のない礼拝、学問と農牧の両立が推奨され、豪奢な聖者廟や誇張された儀礼は抑制されました。

運動の基盤は、オアシスや交通の要所に置かれたザーヴィヤ(zāwiya)です。ザーヴィヤは祈祷・学習・宿泊・食事・倉庫・井戸・畑を兼ねる複合施設で、師弟関係と規約にもとづいて運営されました。ここで子弟はクルアーン朗誦、法学、読み書き、計算、灌漑や農具の扱い、羊やラクダの飼養などを学び、巡礼者や商隊は宿と護衛を得ました。教団は喜捨(サダカ)や会費で運営され、学僧・農民・遊牧・キャラバン商人が一体となった「生業の共同体」を形成しました。

理念のもう一つの柱は、部族間調停と規律です。キレナイカのサアディ、アバード、アウニなど諸部族は、遊牧地・水・交易路をめぐりしばしば争いました。教団は部族長と誓約を交わし、血讐の制限、用水と牧地の割当、通行税の標準化、隊商の安全通行(アマーン)の確保を取り決め、紛争の仲裁役を担いました。この合意はザーヴィヤに保管され、違反には全体罰が科されました。宗教的権威と行政的合意を重ねることで、教団は「国家の外にある、国家のような秩序」を実現したのです。

サハラのネットワーク:ジャグブとクーフラ—学知と交易の十字路

教団の初期の中心は、エジプト国境に近いジャグブ(Jaghbub)でした。ここは学寮都市として整備され、写本の筆写、法学講義、農地開発が進みました。その後、第二代指導者ムハンマド・アル=マフディー・アッ=サヌーシー(1845–1902)の下で、サハラ内陸のクーフラ(Kufra)・ワダイ・チューブ(テブ)諸地域へザーヴィヤ網が拡大します。サハラ交易(塩・穀物・奴隷・羽毛・皮革・ダチョウ・硝石)は、紅海・地中海・サヘルを結ぶ長距離ルートで、教団は商隊の護衛・仲裁・信用の供与を通じて経済の回路を掌握しました。

ザーヴィヤは「聖地」ではなく、機能の結節点でした。井戸の掘削と保守、ナツメヤシの栽培、枯れ井戸の再生、畦畔と水路の共同管理、家畜市場の設営、隊商の野営地の割当まで、細部のルールが整えられました。交易税(ウシュル)も過剰な負担とならないよう一定化され、盗賊行為や匿いの禁止が徹底されました。これにより、遠路の旅人や商人は「サヌーシーの地域なら安全に通れる」という期待を持ち、ザーヴィヤは治安と信用の提供者として信任を得ました。

宗教教育は兼修され、各地のザーヴィヤは師資相承(イジャーザ)で結びつき、学僧は巡回して教えを広めました。過激な排他主義ではなく、スンナ派の法学に根ざす穏健な整斉が特徴で、外来者にも開かれていました。この柔軟さが、のちの政治的激動期においても、部族横断の帰属意識を維持する土台になりました。

列強の侵入と抵抗:フランスのサヘル進出、イタリアの植民地戦争、第一次大戦

19世紀後半、フランスがアルジェリア・サヘル(セネガル〜チャド)へ版図を広げると、ワダイ・ボルヌ・フェザン周縁でサヌーシーのザーヴィヤ網と接触・緊張が生じました。教団はフランス軍や代理勢力の圧力に対し、隊商路の防衛と在地政権の支援を続けましたが、総力戦を志向せず、移動と協議で生存空間を確保する戦術を採りました。こうして外圧をかわしている間に、地中海側からはイタリアが接近します。

1911年の伊土戦争でイタリアがトリポリタニアとキレナイカを侵略すると、サヌーシー教団はオスマン帝国と連携して長期抵抗に入ります。第一次世界大戦期、三代目指導者アフマド・アル=シャリーフ(1873–1933)はオスマン政権・ドイツの働きかけを受け、エジプト西方砂漠でサヌーシー戦役(1915–17)を展開しました。これは、対英戦線における国境襲撃・補給路攪乱・オアシス占拠を中心とする作戦で、最終的に英軍の反攻で後退しますが、遊牧機動力を生かした戦いは英軍に手痛い負担を与えました。

1917年、より慎重な路線をとる若き指導者イドリース(のちのイドリース1世、1890–1983)が教団の指揮を継ぎ、イタリア・英国との停戦交渉に踏み切ります。1920年の合意でイタリアはイドリースを「キレナイカ首長」として一定承認し、教団の自治を限定的に認めましたが、ファシズム体制成立後、イタリアは強硬策に転じ、「リビア平定」と称する苛烈な作戦を展開します。

この時期、サヌーシー系の著名な指導者としてウマル・ムフタール(c.1858–1931)が登場します。彼は山岳地帯ジャバル・アフダルを拠点に、ゲリラ戦でイタリア軍を長年にわたり苦しめました。イタリア側はグラツィアーニ将軍の下で、強制移住・収容所・砂漠の鉄条網などの過酷な対策を講じ、最終的にムフタールを捕縛・処刑しました。彼の抵抗はリビア独立の象徴的記憶となり、サヌーシーの倫理(規律・節制・共同体奉仕)が軍事抵抗の規律にも表れた例として語り継がれます。

王国への接続と現代:イドリースの国家、クーデタ、記憶と継承

第二次世界大戦でイタリアが敗北すると、英仏の軍政期を経て、リビアは1951年にイドリース1世を国王として独立します。王国は連邦制から出発し、キレナイカ(東部)でのサヌーシーの宗教的権威が王権の正統性の柱となりました。ザーヴィヤは教育・福祉・仲裁の機能を持ち続け、宗教的秩序は急進的な政治運動を抑制する緩衝材として働きました。他方で、急速な石油収入の流入、都市化、部族間バランスの難しさは、王制の統治能力を試す課題でした。

1969年、カダフィら自由将校団のクーデタで王政が倒れると、サヌーシーの制度・財産は国家に接収され、多くのザーヴィヤは機能を縮小・停止しました。政権は反王制の立場からサヌーシーを批判する一方、ウマル・ムフタールの抗伊抵抗の記憶は「民族的英雄」として積極的に利用しました。宗教界の制度は国家統制下に再編され、サヌーシー家は長く政治の表舞台から退きます。

2011年の体制崩壊後、リビアの政治は分裂と内戦の苦難を経験しますが、その過程でサヌーシー家(王家)や教団の名は、和解・統合の象徴として再評価される局面が繰り返し現れました。具体的な復活・復権は地域と時期により差があり、統一的な組織再建には至っていませんが、キレナイカの社会におけるザーヴィヤの記憶、部族調停の伝統、慎みと規律を尊ぶ倫理は、地域のアイデンティティの深層に根を下ろし続けています。

現代的意義として、第一に、サヌーシー教団は宗教共同体が社会経済のインフラ(教育・用水・交易信用・治安)を提供し、国家機構の欠損を補完し得ることを示しました。第二に、過激主義と一線を画す規律ある改革派スーフィズムが、部族主義と国家主義の間を取り持つ中庸の倫理として機能し得ることです。第三に、外圧に対する抵抗のあり方として、武力と交渉、移動と定着、自治と国家形成の組み合わせが歴史的に有効だった経験は、サハラ全域の比較研究にも資します。

人物・用語・地名の整理と学習の視点

主要人物としては、創始者ムハンマド・アッ=サヌーシー、拡張期のムハンマド・アル=マフディー、第一次大戦期のアフマド・アル=シャリーフ、政治統合のイドリース、抗伊抵抗のウマル・ムフタールが不可欠です。主要地名は、ジャグブ、クーフラ、ベンガジ、デルナ、ジャバル・アフダル、ワダイ、フェザン、エジプト西方砂漠(シワなど)です。用語では、ザーヴィヤ(ロッジ)、バイア(忠誠の誓い)、アマーン(安全保証)、ウシュル(通行・交易税)、イジャーザ(教授資格)などが頻出します。

授業や試験での押さえ所は、(1)教団の教義と生活規範の特徴、(2)ザーヴィヤ網の社会経済的機能、(3)仏・伊・英との関係と戦いの段階(伊土戦争→サヌーシー戦役→抗伊ゲリラ)、(4)イドリースによる自治承認と独立王国への道、(5)王政崩壊後の記憶政治、の五点です。サヌーシーを「単なる宗教集団」としてではなく、部族横断の結節点であり、国家形成の前段階として理解すると、アフリカ・中東近現代史の流れに位置づけやすくなります。

総括すると、サヌーシー教団は、学知と労働、信仰と公共、交渉と抵抗を結び合わせて、砂漠とオアシスに持続可能な秩序を打ち立てた運動でした。植民地の圧力に抗しつつ、武と和の配分を調整し、宗教共同体から国家へと手触りを伴って移行した経験は、今日の不安定地域にとっても示唆に富みます。砂丘の稜線に沿って点在するザーヴィヤは、祈りの場であると同時に、共同井戸・学校・宿駅・評議の間でした。その集積がやがて王国を支え、今なお人々の記憶の地図を形作っているのです。