州権主義(反連邦主義) – 世界史用語集

州権主義(しゅうけんしゅぎ)とは、アメリカ合衆国において「連邦政府よりも各州の権限を重視すべきだ」という考え方を指す言葉です。これと深く関わる用語として「反連邦主義(はんれんぽうしゅぎ、アンチ・フェデラリズム)」があり、こちらは特に建国期に、強い連邦政府の樹立に反対した立場を指すことが多いです。どちらも、ワシントンD.C.の中央政府に権力が集中しすぎることへの警戒から生まれた考え方で、「地方である州の事情は州が決めるべきだ」という発想が根底にあります。

アメリカはもともと、13の植民地(のちの州)がゆるやかに連合した形で独立しました。そのため、「もともと主役は各州であり、連邦政府はあくまでその代表にすぎない」という感覚が強く残りました。強い連邦政府を望む人びとと、「州の自主性」を守りたい人びとのあいだには、建国当初から緊張関係があり、憲法制定やその後の政治の場で繰り返し対立が生じました。反連邦主義や州権主義は、その対立の「州側」に立つ考え方だとイメージすると分かりやすいです。

19世紀になると、州権主義はとくにアメリカ南部で強く唱えられ、関税政策や奴隷制の問題をめぐって、連邦政府との対立を激しくしました。南部の政治家のなかには、「連邦政府の法律が州の権限を侵している場合、州はその法律を無効だと宣言できる」「最終的には、連邦から脱退(分離)する権利もある」と主張する人も現れます。こうした州権主義の論理は、やがて南北戦争とアメリカの分裂の一因ともなりました。

一方で、州権主義は単に南部の主張に限られるものではなく、アメリカ政治全体において、連邦政府と州政府の力関係をめぐる議論の中で繰り返し登場しました。20世紀以降も、教育政策や人種差別撤廃、公民権運動、医療・福祉、環境規制などをめぐって、「これは連邦政府が決めるべきか、それとも州に任せるべきか」という争点が現れ、そのたびに州権主義の論理が持ち出されています。

まとめると、州権主義(反連邦主義)とは、「アメリカの政治体制のなかで、中央の連邦政府よりも地方である州の権限を重視し、必要に応じて連邦政府の介入を制限しようとする考え方」です。歴史的には、自由や地方自治を守る論理として語られた一方で、奴隷制や人種差別の維持にも利用されてきた複雑な側面を持ちます。以下では、この考え方がアメリカ建国期にどのように生まれ、19世紀には南北対立と結びつき、その後のアメリカ政治にどのような影響を残したのかを、もう少し詳しく見ていきます。

スポンサーリンク

州権主義・反連邦主義とは何か:用語と基本イメージ

まず、州権主義と反連邦主義という二つの用語の関係を整理しておきます。英語では、州権主義は「states’ rights(ステイツ・ライツ)」と呼ばれ、「各州が本来持っている権利や権限」を強調する政治思想・スローガンとして用いられてきました。一方、反連邦主義は「anti-federalism(アンチ・フェデラリズム)」で、特にアメリカ合衆国憲法の制定期に、強い連邦政府を構想した連邦派(フェデラリスト)に反対した人びとを指して使われることが多いです。

どちらも、「中央政府に権力が集中しすぎると、地方や個人の自由が脅かされる」という警戒心を出発点としています。州権主義の立場から見ると、アメリカ合衆国は「州が主」であり、連邦政府は「州の代理人」にすぎません。したがって、憲法に明記されていない権限は原則として各州に残されるべきだとする考え方が強くなります。この発想は、実際にアメリカ合衆国憲法第10条修正(第十修正)に反映されており、「合衆国に委ねられていない権限は州または人民に留保される」と定められています。

反連邦主義という言葉は、初期アメリカ政治の特定の勢力に対して用いられた呼称で、連邦派(ワシントン、ハミルトンら)に対抗した立場です。彼らは当初、合衆国憲法の批准に反対したり、中央政府の権限拡大に批判的だったりしました。多くの場合、強い国家権力が圧政や専制につながることを恐れ、植民地時代の経験から「遠く離れた権力が自分たちの生活を一方的に支配すること」への反発を抱いていました。

州権主義・反連邦主義は、単なる「わがまま」や「中央への反抗」というより、「権力を分散させ、地域の多様性と自由を守ろう」という理念にも支えられていました。たとえば、広大なアメリカ大陸で、ニューヨークとジョージア、バージニアとマサチューセッツのように、経済や社会構造が大きく異なる州が、まったく同じ法律や政策に従わされるべきなのか、という問題があります。州権主義は「地域差を尊重すべきだ」という主張と結びつきやすいのです。

一方で、歴史が進むにつれ、「州の権利」を掲げた主張が、奴隷制や差別制度、連邦政府による人権保護への抵抗と結びついていきます。このため、現代では「州権主義」という言葉に、否定的・批判的なニュアンスが含まれることも少なくありません。用語を扱う際には、「自由や地方自治の論理」と「差別や排除の正当化」という二つの顔を意識することが大切です。

建国期の反連邦主義と州権論

アメリカ独立直後、最初に採用された統治の枠組みは「連合規約(Articles of Confederation)」と呼ばれるものでした。そこでは、各州は主権を強く持ち、中央の連合議会は非常に限られた権限しか持っていませんでした。戦争を戦い抜くための最低限の協力はできたものの、平時の財政や外交、通商の調整では多くの問題が露呈し、「このままでは国家としてまとまらないのではないか」という危機感が高まります。

この問題意識から1787年のフィラデルフィア憲法制定会議が開かれ、より強い連邦政府を作るための新たな憲法案が議論されました。ここで生まれたのが現在のアメリカ合衆国憲法です。しかし、この新憲法はすべての人に歓迎されたわけではありません。強い中央政府のもとで、州や人民の自由が侵されるのではないかと恐れた人びとが存在し、彼らが「反連邦派(アンチ・フェデラリスト)」と呼ばれました。

反連邦派は、憲法案に明確な人権保障規定が欠けていることや、連邦政府が課税権や軍隊を持つことへの懸念を表明しました。彼らの主張は「リバティ(自由)」を守るという点に強い関心があり、遠く離れた中央政府よりも、身近な州政府の方が市民の自由を尊重すると考えたのです。また、大きな国では、市民が政治に直接関わることが難しくなり、政治家や官僚が勝手に権力をふるいやすくなるという危惧もありました。

このような反連邦派の批判に対応するため、連邦派は合衆国憲法の批准後、速やかに権利章典(Bill of Rights)と呼ばれる最初の10の修正条項を追加することを約束しました。言論・信教の自由や陪審裁判の権利などが明記されたのは、その結果です。そして、第10条修正で「連邦政府に与えられていない権限は州や人民に留保される」と定めたことは、州権主義の論理にとって重要な拠り所となりました。

つまり、建国期の反連邦主義は、単純な「中央政府反対」ではなく、「強い国家を作る必要性は認めつつ、それが自由や自治を侵さないように歯止めをかける」という発想でした。その歯止めとして、憲法上の権力分立や人権保障、そして「州の権限の保持」が重要視されたのです。この段階では、州権主義は必ずしも差別や特定の利害と直結しておらず、「自由を守る仕組み」としての側面が強く前面に出ていました。

19世紀の州権主義:奴隷制・無効化論・南北戦争

19世紀に入ると、州権主義は新たな形で前面に出てきます。その最大のテーマが奴隷制と関税政策でした。南部諸州は農業、とくに綿花栽培に依存し、黒人奴隷労働を基盤とした経済構造を持っていました。一方、北部諸州は工業化が進み、保護関税によって自国工業を守る政策を支持する傾向が強くなります。この南北の経済構造の違いが、政治的対立の土台となりました。

南部の政治家たちは、連邦政府が高い保護関税を課すことに反発し、「関税が一部の州の利益を損ない、州の主権を侵害している」と主張しました。特にサウスカロライナ州に代表される州権論者は、「合衆国憲法は州の合意にもとづく契約であり、連邦政府が憲法の範囲を越える法律を制定した場合、各州にはその法律を『無効(ヌル)』だとして適用を拒む権利がある」とする「無効化論(ヌリフィケーション)」を唱えました。

この無効化論は、1830年代の「ヌルリフィケーション危機」で表面化しました。サウスカロライナ州が連邦関税法を州内で無効と宣言し、連邦政府と軍事衝突の危機まで高まったのです。最終的には妥協的な関税引き下げによって危機は回避されましたが、「州はどこまで連邦政府に従う義務があるのか」という問題は解決されないまま残りました。

やがて、州権主義は奴隷制防衛の論理と一体化していきます。北部で奴隷制廃止や奴隷制拡大反対の動きが強まると、南部は「奴隷制は州が決めるべき内政問題であり、連邦政府が介入すべきでない」と主張しました。逃亡奴隷法や西部新領土への奴隷制拡大をめぐる対立は、連邦と州、南北の緊張をさらに高めていきます。

1860年、大統領選挙で奴隷制拡大に反対する共和党のリンカンが当選すると、南部多くの州は「合衆国からの脱退(分離)」を宣言しました。彼らは、「州は自発的な合意にもとづいて連邦に参加しており、その合意を撤回する権利がある」と主張し、合衆国憲法には連邦からの離脱を明示的に禁じる条文がないことを根拠にしました。こうして成立したのがアメリカ連合国(南部連合)であり、そのイデオロギーの中心には州権主義がありました。

南北戦争(1861〜65年)は、表向きには「連邦の維持」と「合衆国からの分離」をめぐる戦いでしたが、その根底には奴隷制を巡る根深い対立がありました。南部は「州の権利」を掲げて奴隷制防衛と分離独立を正当化し、北部は「連邦の不可分性」と徐々に「奴隷制廃止」の理念を強く打ち出していきました。戦争の結果、南部の敗北とともに分離独立の試みは否定され、奴隷制も憲法修正により廃止されます。

この過程で、州権主義は「奴隷制を守るための論理」と強く結びつき、そのイメージは大きく変質しました。もちろん、南部のすべての人が同じ考えだったわけではありませんが、歴史的には「州権主義=南部=奴隷制擁護」という構図が強く印象づけられることになります。

その後の州権主義と現代政治への影響

南北戦争のあと、合衆国憲法は奴隷制廃止(第13条修正)、法の下の平等(第14条修正)、黒人男性の参政権(第15条修正)などを明記し、連邦政府には個人の権利を守るために州の政策に介入しうる強い権限が与えられました。この時期、連邦軍の駐留のもとで南部社会の再編(レコンストラクション)が進められ、かつて州権主義を掲げた南部は、連邦政府による監督と改革を受ける立場に置かれます。

しかし、19世紀末までにレコンストラクションは後退し、南部諸州は「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種差別的な州法を整備し、黒人の選挙権を事実上奪うなどの制度を作り上げました。このとき、南部の政治家たちは再び「州の権利」を掲げ、「人種問題は州が決めるべきであり、連邦政府が口出しすべきではない」と主張しました。こうして州権主義は、今度は人種差別制度の維持のための盾として用いられることになります。

20世紀半ば、公民権運動が盛り上がり、連邦最高裁判所が人種分離教育を違憲と判断し、公民権法や投票権法によって人種差別を禁じる方向が強まると、南部の一部政治家は「州権主義」を前面に押し出してこれに抵抗しました。たとえば、学校統合に反対する州知事が連邦の命令に従わず、連邦軍が出動して統合を実現するような事件も起こりました。このような状況から、現代アメリカ政治の文脈では、州権主義はしばしば「連邦による人権保護に反対する立場」と結びついて理解されることがあります。

とはいえ、州権主義が常に差別や排除だけと結びついているわけではありません。連邦制を採用する国では、「どこまで中央が決め、どこから地方が決めるか」という問題は避けて通れず、教育、環境保護、福祉、医療、銃規制、中絶や同性婚など、多くの政策分野で「州ごとの差」が議論されます。アメリカでも、特定の政策分野では、リベラル派・保守派を問わず「自分たちの望む政策を実現しやすい州権のあり方」を主張することがあります。

たとえば、ある州が環境保護で先進的な規制を導入したい場合、「連邦政府が最低基準だけを決め、あとは州に任せてほしい」と考えることがあります。また、逆に連邦政府の規制を緩めたい勢力が、「州ごとに自由に決めさせるべきだ」と州権主義的な言い方をすることもあります。このように、州権主義はしばしば「自分たちの望む政策を通すための枠組み」をめぐる議論の道具にもなっています。

現代の政治学や歴史学では、州権主義を評価するとき、「地方自治や多様性を尊重するというポジティブな側面」と、「奴隷制や人種差別など、不平等な制度を守るための言い訳として使われてきた側面」の両方を考慮する必要があるとされています。どの側面を強調するかによって、州権主義のイメージは大きく変わってしまうからです。

州権主義(反連邦主義)という用語を手がかりにすると、アメリカ合衆国が建国以来、中央集権と地方分権のあいだで揺れ動きながら、自由と統一、多様性と平等のバランスを模索してきた歴史が見えてきます。州の権利をどう位置づけるかという問題は、単なる憲法論争にとどまらず、奴隷制・人種差別・人権・福祉・文化の違いなど、社会のさまざまな問題と密接に結びつきながら、今もなお議論され続けているテーマなのです。