漢城(かんじょう/ハンソン)は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の首都として1394年から朝鮮半島の政治・文化・経済の中心であり続けた都市の歴史的呼称です。現在のソウル(서울)に相当し、史料や地図では漢陽(かんよう/ハニャン)・漢城府(ハンソンブ)・京城(けいじょう/キョンソン)などの名でも現れます。四方を山に囲まれ、漢江(ハンガン)が貫流する自然地形の上に、城郭・宮殿・宗廟・社稷・官衙・市場・城郭門・街路が儒教的都城理念に沿って配置されました。都城は朱子学的秩序の象徴であると同時に、税と物流、学問と儀礼、身分制度と都市コミュニティが重なり合う生活世界でもありました。近代以降は日本統治期に「京城(けいじょう/キョンソン)」と改称され、都市改造とインフラ整備が進む一方、王朝の象徴空間が改変されました。解放後は「ソウル」が正式名称となり、漢城という表記は歴史学・文献学上の用語として用いられます。中国語では2005年以降、従来の「漢城(汉城)」に代えて「首爾(首尔)」表記を採用するなど、名称は外交・文化の文脈でも話題となりました。本稿では、名称と時代区分、地理と都城構造、政治・社会・文化の実像、近代以降の変容と名称の推移を、できるだけ平易に整理して解説します。
名称・時代区分・語の射程―漢城・漢陽・京城・ソウル
漢城とは、一般に朝鮮王朝の首都としての都市(都城)を指す歴史名です。創業君主の太祖・李成桂が1392年に建国し、1394年に開京(高麗の開城)から漢陽へ遷都して以降、王朝末までの首都空間を総称します。古い地名としては「漢陽」が正格で、これが行政単位として「漢城府」となり、文献や官制表では漢城府判尹(市長に相当)などの名称が出てきます。地名の「漢」は漢江水系との結びつきを反映し、「陽」は川の北側(陽)に開ける地を示す漢字地理学の語法です。
日本統治期(1910–1945)には「京城(けいじょう/キョンソン)」の名が用いられ、行政区画として「京城府」が置かれました。解放後は朝鮮語の固有名「ソウル(서울)」が正式名となり、漢字表記は原則として用いられません(歴史文脈では「漢城」「漢陽」「京城」を区別して使います)。中国語では長く「漢城(汉城)」が慣用でしたが、2005年に韓国政府の要請等を受け、対外的には「首爾(繁体)/首尔(簡体)」への統一が進みました。これらの名称は、同一の都市が時代・制度・言語に応じて持ち替えてきた“多層の顔”を示しています。
歴史区分としては、①建都以前(高句麗・百済・新羅・高麗期の拠点としての漢江流域)、②朝鮮初期(15世紀)における都城計画の確立、③中後期(16–18世紀)の人口膨張と市場・学問の深化、④19世紀の改革と危機、⑤20世紀前半の植民地期の都市改造、⑥戦後のソウルとしての拡張、という段階で把握すると全体像が掴みやすくなります。本稿の「漢城」は主に②〜④の王朝期の都城を中心に述べ、⑤⑥では名称の変遷と空間の継承・改変を要点のみ示します。
地理と都城構造―城郭・宮闕・宗廟・社稷・城門・街路
漢城の立地は、風水思想と現実の防御・水利を兼ねた計画の産物です。北に北漢山・仁王山・白岳(北岳=現・北漢山系)などの山並み、南に南山を負い、東西に鞍部を持つ盆地の中央を漢江が流れます。都城の核は山城と平地城を組み合わせた「漢陽都城(ソウル城郭)」で、外周の城壁は山稜と鞍部をなぞるように築かれました。城郭門は大枠で八門(四大門・四小門)とされ、南大門(崇礼門=スンネムン、通称ナムデムン)、東大門(興仁之門=フンインジムン)、北大門(崇義門、後に閉鎖)、西大門(敦義門、のち消失)などが交通の要となりました。門は儀礼と流通のノードであり、市場・宿駅・関市が結びつき、都市のリズムを刻みました。
王宮は複数の宮闕が互いに補完しあう構造をとりました。メインの景福宮(景福宮)は国王の正宮として1395年に創建され、王権の象徴空間でした。政治の中枢である勤政殿、生活空間である交泰殿・康寧殿、後苑などが配置され、儀礼と政務が分節化されています。文禄・慶長の役後には昌徳宮(1405創建、後に再建)が実質的正宮として機能し、自然地形を生かした後苑(秘苑)が朝鮮美学の代表的景観を成しました。このほか、昌慶宮、徳寿宮、慶熙宮などが時々の政治状況と火災・戦乱に応じて用いられました。王城の東に宗廟(王家の位牌を祀る)、西に社稷壇(国家の土地と穀物の神を祀る)を配する左右対称の配置は、儒教国家のコスモロジーを具現します。
街路は北岳から南山へ走る脊梁を軸に、宮闕前から南北・東西の幹線が伸び、区画は自然地形を尊重しながらも計画性を帯びました。都市中心部には官衙(六曹など)や科挙会場(成均館)が集まり、学術と行政の結節点を形成しました。成均館は高等教育機関であると同時に儒礼の殿堂であり、科挙の施行・儒生の生活・朱子学研究の拠点でした。都市用水では清渓川が河道整備と石橋・暗渠化を通じて衛生・物流の大動脈となり、周辺には市場と職人町が集積しました。
都城の“もう一つの城”が漢江です。川は米・塩・薪炭・魚介・木材の運送路として機能し、渡津や船着場は周辺農村と首都を結ぶ経済の毛細血管でした。春の解氷と夏の水位上昇は都市の生活リズムと密接に関わり、堤防の維持や渡船の管理は国家と民間の共同責務でした。漢江沿いの農地・塩田・集落は、都城の食料・燃料・建材供給を支える“見えざるインフラ”であり、都と地方の経済循環をつなぐ要です。
政治・社会・文化―朱子学国家の中枢としての都市生活
漢城は、朱子学を国是とする朝鮮王朝の政治文化の中心でした。宮闕・宗廟・社稷での定期儀礼は、国家と王権の正統性を可視化する舞台であり、官僚は科挙(文科)により登用され、六曹・都摠府・義禁府などの官庁で行政・軍事・司法を担いました。三司(司憲府・司諫院・弘文館)は言路を司り、王権の逸脱を諫止する制度的装置を提供しました。王と士大夫の緊張と協調、党派(東人・西人→老論・少論・南人)の分裂と合従連衡は、都市の政治空間を通じて日常化しました。
都市社会の基層には、身分秩序(両班・中人・常民・賤民)と職能集団(工匠・商人・楽工・僧侶)が編み込まれていました。両班は学問と官僚制の担い手として都市中心部に居住し、書院・私塾・文会で学術と詩文の社交を営みました。中人は通訳・医官・律学・図書・測量など専門技能で官庁と市場を支え、職人は官営工房(内需司・尚衣院・尚方司など)や市場で生産とサービスに従事しました。市場(市)は定期・常設の双方があり、南大門・東大門周辺や清渓川沿いに行商と座(同業組合)が集まり、紙・綿布・陶器・金銀細工・薬材・木材などが流通しました。
宗教と文化の層では、儒教が中心でありながら仏教・道教・巫俗が都市の隙間を満たしました。王朝初期には抑仏政策で寺院は郊外に後退したものの、都市の葬送儀礼・祈雨・疫病退散などでは僧侶や巫覡が重要な役割を果たしました。印刷と出版では、金属活字と木版本が発達し、律令・儀礼書・医書・実用書が刊行されました。ハングル(訓民正音)の制定は識字の裾野を広げ、女性や庶民の文芸・書簡文化を育て、都市のコミュニケーション様式に長期的変化を与えました。
衛生と治安の面では、清渓川の清掃・堆肥化、汚物処理、井戸の維持、市壁・門の開閉管理、夜禁制度、消防・消火桶の配備、義倉・常平倉の運営など、自治と官の協働が求められました。飢饉・疫病・火災・洪水への備えは、都市のレジリエンスを左右する要素で、義倉による米の備蓄や価格安定策は物価と治安を安定させる役割を担いました。
学問・芸術では、成均館と王立の図書機関(奎章閣など)が知の集積と校勘を行い、科挙の答案作法・経義の標準化が進む一方、実学(農政・地理・計量・商業)や天文学・暦算・地図作成も発達しました。宮中音楽(雅楽)と民間芸能(パンソリ・仮面劇)、絵画(真景山水や風俗画)、工芸(青磁・白磁・漆工・螺鈿)が都の嗜好を反映して洗練され、祭礼・婚礼・日常の器物にまで美意識が浸透しました。
近代以降の変容と名称の推移―京城改称、都市改造、ソウルへの継承
19世紀末から20世紀初頭、外圧と改革の波は都城空間を大きく揺さぶりました。甲午改革・大韓帝国の成立を経て近代官制・警察・軍制・郵便・電信・鉄道が導入され、路面電車やガス灯が都市景観を変え始めます。日本による統治が始まると、都市は「京城(けいじょう/キョンソン)」と改称され、道路の直線化・拡幅、上下水の整備、官庁街の建設、鉄道駅・倉庫・発電所などインフラの網が張り巡らされました。王朝空間の中心であった景福宮前には朝鮮総督府庁舎が建ち、宗廟・社稷の周辺も含め象徴空間の意味づけが変容します。市場の近代化・衛生事業、住宅地の区画整理といった施策は近代都市としての利便性を高めつつも、伝統的街区の破壊や住民移動を招きました。
1945年の解放後、都市は「ソウル」の名で再出発します。朝鮮戦争で甚大な被害を受けつつ、復興・工業化・高度経済成長の中で市域は漢江の南北へ大きく拡張されました。高速道路・地下鉄・橋梁のネットワーク、漢江総合開発による堤防・公園・水辺空間の整備、再開発とニュータウン建設は、王朝期の城壁内都市のスケールをはるかに超えるメガシティを生み出しました。一方で、城郭の一部復元、城門の修復、宗廟・昌徳宮・昌慶宮などの保存と世界遺産登録、清渓川の復元事業など、歴史景観の再評価と公共空間の再生が進み、漢城以来の空間記憶が現代都市の文化資本として位置づけ直されています。
名称の問題に関しては、韓国側の正式表記がハングル「서울」であること、漢字表記は一般に用いないことが基本です。日本語・歴史学文脈では時代に応じて「漢陽」「漢城」「京城」「ソウル」を使い分け、中文圏では2005年以降「首爾/首尔」への統一が進みました。これは単なる表記の差ではなく、近代以降の国民国家形成・言語政策・対外関係の変遷を映す鏡でもあります。史資料を扱う際には、該当時代の公文書や地図が用いる呼称に合わせて記述するのが望ましく、同一地名の異称が混在する文献では注記による整理が有効です。
総じて、漢城とは「儒教国家の理念型として計画され、幾度も災禍と改革をくぐり抜け、近代都市へと受け継がれた首都空間」の別名です。城郭・宮闕・宗廟・社稷・市場・学府という構成要素は、ソウルの現代的景観の奥に薄く濃く影を落としています。地形に寄り添う城壁の線、門前の市場の喧噪、川べりの物流、儀礼の音と匂い——それらは、名が変わっても続く都市の“身体記憶”です。漢城という語で都市を呼び直すことは、ソウルという現代都市の底に流れる長い時間を可視化し、過去と現在をつなぐ補助線を引く作業にほかなりません。

