シューマン – 世界史用語集

「シューマン」とは、第二次世界大戦後のヨーロッパ統合を方向づけたフランスの政治家ロベール=シューマン(Robert Schuman, 1886〜1963年)を指す名称です。世界史用語として出てくる場合、多くは1950年の「シューマン宣言」や、それにもとづくヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創設と結びついて登場します。のちにヨーロッパ連合(EU)へと発展していく統合のスタート地点に立った人物として、「ヨーロッパ統合の父」の一人に数えられています。

シューマン宣言は、「フランスと西ドイツなどが、戦争の原動力となってきた石炭・鉄鋼資源を共同管理する組織をつくろう」という提案でした。フランスとドイツは、普仏戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦と、長く戦争を繰り返してきた「宿敵」でしたが、その二国があえて経済的・政治的な利害を結びつけることで、将来の戦争を「物理的に不可能にする」ことをめざしたのです。この発想は、単なる外交協定を超え、「主権の一部を共同の機関に預ける」という画期的なものでした。

この解説では、まずロレーヌ出身の政治家としてのシューマンの生涯と、彼が体験したドイツとフランスのはざまで揺れる歴史的背景を見ていきます。つぎに、外相として打ち出したシューマン宣言の内容と、その結果生まれたヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の仕組みを整理します。さらに、それがどのようにしてヨーロッパ経済共同体(EEC)、そして現在のEUへとつながっていったのかを説明し、最後に、シューマンという人物が「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀において、どのような意味をもったのかを考えていきます。概要だけでも、大まかに「誰で、何をした人か」がつかめるようにし、詳しい部分は見出しごとに掘り下げていく構成にします。

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ロベール=シューマンの生涯と時代背景

ロベール=シューマンは1886年、当時ドイツ領だったロレーヌ地方の町ルクセンブルク近郊(モゼル県地域)に生まれました。ここはフランスとドイツの国境地帯であり、普仏戦争(1870〜71年)の結果、フランスからドイツに割譲されたばかりの地域でした。住民の言葉や文化にはフランス的要素とドイツ的要素が混じり合っており、「どちらの国にも属し、どちらの国からも完全には自分のものとして認められない」という、複雑なアイデンティティを抱えた土地でした。

シューマンの家庭も、その境界性を体現していました。父親はもともとルクセンブルク出身で、フランス側に併合される前からロレーヌに住んでおり、普仏戦争後にはドイツ国籍となります。母親はルクセンブルク人で、家庭内ではドイツ語とフランス語の両方が用いられました。シューマン自身も、フランス文化とドイツ文化の双方に親しみながら成長し、のちにフランス語・ドイツ語・ルクセンブルク語・英語など複数の言語を操る国際派政治家となっていきます。

若い頃のシューマンは、ドイツの大学で法律を学び、第一次世界大戦前にはドイツ帝国の法廷弁護士として活動していました。しかし、第一次世界大戦後、ドイツは敗北し、ヴェルサイユ条約によってアルザス・ロレーヌ地方は再びフランスへと戻されます。それに伴い、シューマンもフランス国籍を取得し、今度はフランスの政治家として歩み始めることになります。この国籍の切り替えは、当時の国境地帯の人びとにとっては珍しくない体験でしたが、シューマンにとっては、「フランス人であり、同時にドイツ文化もよく理解している」という特異な感覚をもたらしました。

彼は、第一次世界大戦後の第三共和政フランスで政治活動を始め、カトリック系・保守系の政治家として、主にロレーヌ地域の利益を代表しました。議会では財政や地域行政などの問題に取り組み、地元からの信頼を集めていきます。第二次世界大戦直前期には短期間ながら大臣を務めるなど、全国レベルでも知られる存在となりました。

しかし、その政治経歴は順風満帆だったわけではありません。第二次世界大戦が始まり、1940年にドイツ軍がフランスに侵攻すると、フランスはわずかな期間で敗北し、ヴィシー政権が成立します。シューマンは対独協力に批判的であったため、ドイツ側から逮捕され、一時は拘禁される立場に置かれました。その後、彼は脱走に成功し、フランス国内のレジスタンスや反ナチ勢力と連携しながら、再び政治の舞台に戻る機会をうかがいます。

戦後、フランスが第四共和政として再出発するとき、シューマンは「ナチスと妥協しなかった保守派政治家」として信頼され、臨時政府やその後の政権で重要な役割を担うようになります。1947年には一時期首相を務め、その後外務大臣に就任しました。まさにこの外相時代に、彼は歴史に残る「シューマン宣言」を発表することになります。

シューマン宣言とヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)

第二次世界大戦後のヨーロッパは、物理的な破壊と人命の損失のみならず、精神的にも大きな傷を負っていました。二度にわたる世界大戦の中心となったのは、ほかならぬヨーロッパであり、とりわけフランスとドイツの対立は、1870年代からほとんど切れ目なく戦争や緊張を生んできました。この悪循環を断ち切らなければ、ヨーロッパに安定した平和は訪れない──戦後の多くの政治家や知識人が、そう痛感していた時期です。

外相となったシューマンも、この問題への答えを模索していました。そこで彼とそのブレーン(とくに経済学者ジャン=モネら)が考え出したのが、「戦争の材料そのものを共同管理してしまうことで、戦争の可能性を封じ込める」という発想でした。ドイツとフランスが過去の戦争で奪い合ってきたのは、石炭や鉄鋼などの重工業資源でした。これらは軍需産業の基盤であり、戦車や大砲、兵器を生産するために不可欠です。

1950年5月9日、シューマンは記者会見の場で、歴史に残る演説を行います。これが「シューマン宣言」と呼ばれるものです。その核心は、「フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼生産を、超国家的な共同機構の監督下に置き、それを他のヨーロッパ諸国にも開放する」という提案でした。これによって、どちらか一方の国が勝手に軍備を増強することが難しくなり、戦争準備の動きを早期に察知し、抑止することが可能になると考えたのです。

この提案は、西ドイツのアデナウアー首相をはじめ、西ヨーロッパの主要国から前向きに受け入れられました。戦後の西ドイツは、ナチズムの反省のもとで国際社会への復帰を強く望んでおり、フランスとの和解はそのための重要なステップでした。イタリア、ベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)も参加を表明し、1951年には「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)」設立条約が調印されます。

ECSCは、加盟国間で石炭と鉄鋼の関税を撤廃し、生産・価格・投資などを共同で調整するための高権を持つ機関(高等機関)を設置しました。この高等機関は、加盟各国政府から独立した超国家的な性格を持ち、加盟国は自国の主権の一部をこの機関に委ねることになります。これは、単なる国際条約を超えた、新しいタイプの国際組織の誕生でした。

シューマン宣言とECSCの意義は、単に石炭と鉄鋼の経済協力にとどまりませんでした。最初は限定された分野から始めることで、互いの信頼を築き、「小さな一歩を積み重ねていくうちに、やがて政治・経済のより広い統合に道が開ける」という「漸進的統合(機能主義的統合)」の考え方が、ここに具体化していたのです。後世から見ると、これはヨーロッパ統合プロジェクトの「出発点」として位置づけられます。

その後のヨーロッパ統合とシューマンの役割

ECSCの成功を受けて、西ヨーロッパではさらなる統合への動きが加速していきます。1957年には、フランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス三国の六か国がローマ条約に調印し、「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」と「ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)」が設立されました。EECは加盟国間の関税を段階的に撤廃し、共通市場をつくることを目的とした組織であり、後のEUの直接の前身です。

シューマン自身は、ローマ条約調印時にはすでに外相職を退き、ヨーロッパ議会(当時は「共同総会」と呼ばれる諮問機関)の議員として活動していました。彼は、統合機構の内部から、各国議員の協力と議論を通じて、「ヨーロッパ市民」としての意識を高めようと努めました。国民国家を完全に否定するのではなく、国民国家同士が主権の一部を持ち寄ることで、より大きな平和共同体をつくる、という考え方です。

シューマンの特徴は、急進的な革命家ではなく、敬虔なカトリック信徒でありながら、現実政治の中で慎重に妥協点を探っていく「実務家タイプ」の政治家であったことです。彼は、自国フランスの国益を無視したわけではなく、むしろフランスの安全保障と経済再建のためにこそ、ドイツとの和解とヨーロッパの統合が必要だと考えました。フランス国内では、ドイツへの不信感から統合に反発する声もありましたが、シューマンは「対立よりも共通利益を前面に出すべきだ」と説いて説得を試みました。

また、シューマンと協力したアデナウアーや、イタリアのデ・ガスペリらも、カトリック的な価値観と反ナチ・反ファシズムの経験を共有していました。彼らは、キリスト教民主主義の立場から、「人間の尊厳」や「連帯」「補完性」といった理念を、ヨーロッパ統合の基盤に据えようとしました。シューマンは、このような価値観を背景に、「二度の大戦を繰り返さないヨーロッパ」を構想したのです。

その後もヨーロッパ統合は紆余曲折を経ながら進み、1993年にはマーストリヒト条約によってヨーロッパ連合(EU)が正式に発足します。通貨統合(ユーロ導入)や人の移動の自由など、統合の深化が進むたびに、その出発点としてのシューマン宣言とECSCの意義は改めて語り直されてきました。今日、EUの公式な記念日である「ヨーロッパ・デー」が5月9日に設定されているのも、1950年のシューマン宣言を記念してのことです。

シューマンの歴史的な位置づけ

ロベール=シューマンは、首相として長期政権を築いたわけでもなく、カリスマ的な大演説で群衆を熱狂させるタイプの政治家でもありませんでした。むしろ、物静かで妥協を重んじる、地味な印象の人物として語られることが多いです。それでも彼の名が世界史に残るのは、第二次世界大戦という未曾有の破局ののちに、「フランスとドイツが手を結ぶ」という当時としては大胆な道を選び、そのための具体的な仕組み(石炭・鉄鋼の共同管理)を提示したからです。

シューマンの考えは、歴史の流れの中で見ると、19世紀までの「国民国家どうしの勢力均衡」による平和観とは大きく異なっていました。かつては、同盟や軍備による抑止力のバランスが「平和」をもたらすと考えられていましたが、20世紀前半の二度の大戦は、その考え方の限界を突きつけました。シューマンは、「戦争の原因となる資源や産業を共同管理し、利害を結びつけてしまえば、戦争そのものへのインセンティブが弱まる」という、構造から平和をつくる発想を採用しました。

もちろん、ヨーロッパ統合は順風満帆ではなく、経済危機や加盟国間の対立、EU懐疑派の台頭など、多くの問題を抱えてきました。それでも、シューマンが生きた時代と比較すれば、フランスとドイツが互いに戦争を仕掛けることを真剣に想定する人は、現代ヨーロッパにはほとんどいません。その意味で、「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀に、ヨーロッパ西部で長期の平和と協力の枠組みをつくるうえで、シューマンが果たした役割は小さくないと言えます。

世界史で「シューマン」という名前を見かけたときには、19世紀ロマン派の作曲家ローベルト=シューマンではなく、20世紀のフランス外相ロベール=シューマンを指している場合が多いです。その文脈では、「シューマン宣言」「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)」「ヨーロッパ統合の父」といったキーワードと結びつけて理解しておくとよいでしょう。そして、その背景には、国境地帯の出身者としてフランスとドイツの両方を知り、二度の大戦の悲劇を身をもって体験した一人の政治家が、「対立ではなく結びつきによる平和」を模索した歴史があったことも、あわせてイメージしておくと理解が深まります。