世界史

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キリスト教会の東西対立とピピンの寄進

西のローマ=カトリック教会と東のコンスタンティノープル教会の対立が深まり、ローマ=カトリック教会は孤立化していきます。その中で、ローマ=カトリック教会は、フランク王国との協力関係を作り、東に対抗します。このように、キリスト教会の東西対立は鮮...
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東ローマ帝国の縮小とイスラム帝国の強大化

今回も引き続きゲルマン人国家と東ローマ帝国の動きを追っていきます。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が、ローマ帝国復興をかけてゲルマン人から領土を奪い返しました。その後のお話をしていきたいと思います。要点は以下の3点。東ローマ帝国の領土縮小 西ゴート族の滅亡 イスラム帝国の強大化
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ユスティニアヌス1世によるローマ帝国の復興

375年に始まったゲルマン人の大移動は、ゲルマン人国家の成立と西ローマ帝国の滅亡へと繋がりました。 そしてゲルマン人国家は、ローマ帝国で異端とされたアリウス派を受け入れていきます。ユスティニアヌス1世がゲルマン人国家を次々と滅ぼす中で、フランク王国は勢力を拡大し、クローヴィスの改宗が行われます。
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【帝政ローマ】ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡

今回のテーマはゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡です。その前に、この大移動が起こる以前のゲルマン人のお話をしておきます。ゲルマン人はローマ帝国の北方に住んでいる民族ですが、かなり前から安定した職を求め、ローマ帝国に少しずつ移住して来てい...
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【帝政ローマ】キリスト教の国教化とローマ帝国の東西分裂

今回のテーマはキリスト教の国教化とローマ帝国の東西分裂です。ディオクレティアヌスが始めた分割統治は、コンスタンティヌス1世によって再び単独皇帝による統治に戻りましたが、コンスタンティヌス1世以降、また分割統治になったり、単独統治になったり...
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【帝政ローマ】コンスタンティヌス1世

今回のテーマはコンスタンティヌス1世です。ディオクレティアヌスが考案した分割統治は、その後どうなったのでしょうか?結論を言うと、うまくいきませんでした。ディオクレティアヌスがローマ皇帝を退位後、ローマ皇帝同士の争いが激化します。結局は、「分割は嫌だ。ローマ帝国の全部が欲しい」ということです。そんな中、307年、西方
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【帝政ローマ】ディオクレティアヌスとドミナートゥス(専制君主政)

今回のテーマはディオクレティアヌスとドミナートゥス(専制君主政)です。要点をまとめると以下の通りとなります。官僚制・・・軍事と政治の担当者を分離し、官僚制を採用した。四帝分治制(テトラルキア)/キリスト教の弾圧/ドミナートゥス(専制君主政)・・官僚制を通して強力な支配体制を築いた。
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五賢帝以降の混乱 ~ 軍人皇帝

コンモドゥス(在位:180年~192年) 五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後、皇帝に就いたのは彼の息子である18歳のコンモドゥスでした。 コンモドゥスはやがて暴君と化します。その経緯を少し詳しく書いていきます。 コンモドゥ...
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オクタウィアヌス(アウグストゥス) ~ 五賢帝

帝政ローマ(紀元前27年~西暦476年) オクタウィアヌスが元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられてからが帝政ローマの始まりとされています。 帝政ローマになったからといって、元老院は廃止されず、形式上は共和政を尊重し、皇帝はプリ...
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内乱の1世紀 ~ 共和政の終焉

同盟市戦争の終結後も、平民派マリウスと閥族派スラの流血を伴う激しい抗争が続きましたが、紀元前86年、70を超える年齢になっていたマリウスは病死します。(当時のスラは52歳) マリウスの死後、スラは平民派の有力者を次々に処刑していきました。...
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